2002年 フランス映画

ベネティア国際映画祭 観客演出男優賞受賞
リュミエール賞男優賞 受賞 作品

列車から、さびれた田舎町に降り立つ一人の男ミランは、薬が手放せない。
町の薬局で薬を買い求めた折に、同じ店に居た客のマネスキエと知り合う。

ホテルの閉まっているその町で、マネスキエの家に泊まるようになったミランは、仲間であるマックスやルイジと、一日一度10時にした喋らないサディコも含めて、町にある銀行への強盗を計画していた。

マネスキエはフランス語を教えてきた元教師だった。
母親と暮らし、その母親が亡くなってからも一人暮らしを続けた。
小さい頃からピアノや読書など、いろいろな事をこなすようになっていた。

対照的な二人の出会いは、それぞれに憧れていた生き方を思い起こさせる。

マネスキエは、自由奔放で自由な生活を夢み、ミランは、静かで穏やかで落ち着いた生活を思い描いた。

ミランの強盗計画は3日後だ。
そしてその日に、マネスキエは脳の手術を受ける予定になっていた。
そしてマネスキエは、自分の命が手術で終るような気がしていた。

マネスキエはミランに頼む。
『一度でいいから拳銃を撃ってみたい』ミランはマネスキエに頼む。
『一度も部屋履きを履いたことがないから、部屋履きを履きたい』と。

お酒の飲み方も女の口説き方もマネスキエは知らない。
ピアノを弾くマネスキエの側で、ミランは寛ぐ。
そして3日後、二人はそれぞれの道を行く。

映画は淡々と進む。

正反対の生活をしてきた二人が、出会うことによって少しづつ自分の殻を破る。
自分の生活に嫌気の指している二人は、お互いに刺激し合いながら、それでも自分の道を歩む。

どうってことのない日々の生活を描くこの映画は、どうってこともないからこそある種の共感を呼び覚ます。

憧れは人の心に何時しか忍びこみ、人生の終りを告げる頃に、人の心に憧憬として現れるのだろうか。
そんなことを思い浮かべた。

最後に小噺を一つ

《死後の世界で五人のユダヤ人が
「人間の本質は何か」をめぐって論議していた。
一人目の人物(モーゼ)は頭を指して
「理性である」と言った。
二人目の人物(イエス)は胸を指して
「いや、もっと下だ。それは心である」と言った。
三人目の人物(マルクス)は腹を指して
「いや、さらに下だ、それは胃袋である」と言った。
四人目の人物(フロイト)は下腹部を指して
「いや、もう少し下だ、それは下半身である」と言った。
五人目の人物(アインシュタイン)は
「いや、皆さん、すべて相対的ですから……」と言った。

※フロイトは、「下半身が人間の本質」に近いことは言ってるけど、意味が少し違うのでご注意下さい」

(J)

「列車に乗った男」