桜庭 一樹(さくらば・かずき)
1999年、「夜空に、満天の星」(『AD2015隔離都市 ロンリネス・ガーディアン)で第1回ファミ通エンタテイメント大賞に佳作入選。
2003年開始の〈GOSICK〉シリーズで多くの読者を獲得する。
04年に刊行された『推定少女』『砂糖菓子の爆弾は撃ちぬけない』が高く評価されて注目を集める。
07年『赤朽葉家の伝説』で第60回日本推理作家協会賞を受賞。
08年『私の男』で第138回直木賞を受賞。
近著に『ファミリーポートレイト』『製鉄天使』『お好みの本、入荷しました―桜庭一樹読書日記』。

私の男は、ぬすんだ傘をゆっくりと広げながら、こちらに歩いてきた。
日暮れよりすこしはやく夜が降りてきた。
午後六時過ぎの銀座、並木通り。
彼のふるびた革靴が、アスファルトを輝かせる水たまりを踏み荒らし、ためらいなく濡れながら近づいてくる。
店先のウィンドゥにくっついて雨宿りしていたわたしに、ぬすんだ傘を差しだした。
その流れるような動きは、傘盗人なのに、落ちぶれた貴族のようにどこか優雅だった。
これは、いっそうつくしい、と言い切ってもよい姿のようにわたしは思った。
「けっこん、おめでとう。花」
本文 抜粋

傘を盗んだ男は、腐野淳悟。
花の『私の男』だ。
腐野花は、十歳の時に震災で両親や兄・妹を失い、ただ一人生き残った。
その当時、25歳で独身で、経済的にも安定していた遠縁の腐野淳悟の養女となり、淳悟と親子になった。
まわりの人は、独身者の淳悟に子どもが育てられるかと心配したが、彼はまめに花の面倒を見た。
花は、北海道・奥尻島で生まれ、震災後、引き取られた紋別で暮らす。
そして8年前に東京にやってきた。
尾崎美郎は、花の婚約者で明日結婚式を挙げる。

新婚旅行のフィージーの海は、たしかにきれいで、素敵だった。
だが、花の脳裏にあったのは、子どものころ毎日のように見続けた、青黒く光る海だった。
まるで意思を持つおおきな黒い怪物のように花を飲みこんで、まっすぐに私の男のもとに送り届けた。
もう振り返らない。
過去のことは考えない。
囚われない。
自分に何度もそう言い聞かせた。

帰宅して、3LDKの新築マンションの新居で、花は不思議なメッセージを受け取った。
掛けなおした電話は、古くからの知り合いの小町さんだ。
だが電話には出なかった。
その小町さんから連絡があった。
荒川の澱んだ流れをよそ眼に、16歳から歩きなれた河川敷を歩く。
こんな場所に、思い出に近づいたら、また養父に会ってしまう、と恐ろしくなった。
アパートの鍵を開けると、六畳の開かれた窓から陽射しがはげしく目をくらました。
机もなかった。
冷蔵庫も、食器棚も、ふるいタンスも、も、なにもかもなくなっていた。
淳悟もいなかった。

花の結婚から二人の過去へと物語は遡る。
愛に飢えた親子が超えた禁忌な愛の物語だ。
〈愛情とは、憎しみとは何か?〉。
そんな思いを抱きながら、寂しさにも似た何とも言えない思いが去来する作品であった。

(J)

「私の男」