佐藤 正午 Shogo Sato
1955年、長崎県佐世保市生まれ。
北海道大学文学部中退。
『永遠の1/2』で、すばる文学賞受賞。
著書に『取扱注意』『彼女につい知ることのすべて』『ジャンプ』『君は誤解している』『ありのすさび』などがある。

八月の雨の晩にその電話はかかってきた。
その男は、秋間文夫の都立高校時代の同級生だという。
しかも親友だったというのだ。
喋り方は礼儀にかなって、押しつけがましくなく、威嚇的な調子でもない。
だが、秋間は、「北川健」というその名前に、まったく覚えがなかった。
彼は、今から会いたいという。
いたずら電話なんだろうかとも思った。
北川は、読んでもらいたいものがあるという。
出版社の営業部員である秋間は、とっさに本の出版かと思った。
しかし、彼はそれは誤解だといい、自分の人生に起こった不思議な物語を秋間に読んでほしいだけだという。
話せて本当に良かったという言葉と共に、彼は電話を切った。
電話を切った秋間は、奇妙な予感にとらわれていた。
予感と言うより既視感に似ている。
3日後、秋間は「加藤由梨」名乗る北川健の代理人からその物語のフロッピーと、現金500万円と9桁の数字の打ち込まれた預金通帳を受け取ることになる。

そのフロッピーディスクに書かれている北川自身の物語では、秋間は北川の親友だった。
北川は、アイリス・アウト、アイリス・インと呼べる現象を経験していた。
アイリス・アウト、アイリス・インは、映画の流れの中で、場面を転換するときに使われる言葉だ。
彼は、同じ時間を二度経験して、過去へと移動していうというのだ。
そして、北川にとって重要な18年前の過去の光景へとその現象は起きたという。
18年前のその光景は、当時の北川が強い興味を持っていた一人の女性の命を救うためのものだった。
その女性は、今の生活では、離婚寸前の秋間の妻「水間弓子」だった。

タイトルの「Y」は、時間の流れの分岐点をさす。
右に行くか左に行くか、その時間の流れでその後の人生は変化する。
右にいった人生の物語と左にいった人生の物語を、興味深く描かれている作品である。
もし、自分自身がその分岐点にいるなら、どちらに行くのだろうか。
ふと、そう思いながら物語を読んだ。

(J)

「Y」