ル・クレジオ 著
豊崎 光一 訳

ジャン=マリ・ギュマターヴ、ル・クレジオ
1940年4月13日生まれ。
フランスのニース出身の小説家。
父は、イギリス国籍の医師で、母は、フランス国籍を持つ。
2008年にノーベル文学賞を受賞している。
著書には、1963年『調書』、1964年『アンリ・ミショーの作品のなかの孤独』、1965年『発熱』、1966年『大洪水』、、1967年『物質的恍惚』『愛する大地』、1971年『悪魔祓い』、1974年レヴィ=ストロース『裸の人』論、1978年『氷山の方へ』『木の国への旅』『モンド、およびその他の物語』『地上の見知らぬ少年』など。

『物質的恍惚』は、解説によると、ル・クレジオのエッセーの形をとる作品である。

この本が出た直後のインタビューで、彼は、
「ある文章を書くたびごとに、二次的な文章のようなものが浮かんできて、今書いたことに問いをつきつける、そしてその問いにこそぼくは答えたかったのです。
・・・・・・・
登場人物がいないということについてですが、記述において〈私〉と〈彼〉とは交換可能だと言えると僕は思っています。重要なのは、書くものに対する自分の位置を決定することではなくて、書いているあいだボールペンを導いてゆくエネルギーをためしてみることなのです。人々が述べているのが自分たちの考えであるのか、それともその人々が明らかにしようと試みているのは隣人たちの考えであるのか、それはけっしてはっきりとわかりません。そしてまさにそのことこそ、興味深い点なのです―思考の、そして言語の使用の、このような共有性こそ、」
本文 抜粋

「物質的恍惚」では、ぼくが生まれていなかったとき、生命の円環を閉じ終えていず、孕まれてさえいず、考えうるものでもなかったとき、存在することができなかったとき。
過去のものでもなく、現在のものでもなくと、〈まるで、人の生まれる前のような時期のこと〉が書かれている。
また、ぼくはひとりぼっちではない、肉体的、知的、精神的見地から言って、ぼくが存在しているのは、何百万もの人々がぼくのまわりの存在し、かつて存在したという、タイトルが「無限の中ぐらいのもの」。
最後の「沈黙」では、諾と否の対立、騒擾、迅速な運動、抑圧などの数々はもはや通用をやめるだろう。肯定と同時に否定していたあの隠された声が語るのをやめるとき、新しい皮膚をひろげるだろうと記されている。

ル・クレジオの独特の世界観に彩られた言語の世界は、読み方を少し変えると、生きることへの一つのメッセージとも読める。
自分が、自分の言語、世界、自らの考えと思うものは、どこまでが、本来的な自分なのだろうか。
その視点で、本書を読むと、インタビューでの彼の言葉のように、人々の考えと自分の考えを明らかにしようとする試み、また、共有性への思いは、自分自身への果てしない問いかけのようにも読める。

興味深い一冊である。

(J)

 

 

「物質的恍惚」