J・クリシュナムーティ 著+根本 宏・山口圭三郎 訳

この本はクリシュナムーティがこれまでに書いたものと、彼の講演の中から選んで編集されたものですが、読者はこの本の中に、人間の根源的な問題についての明快で現代的な声明を発見するでしょう。
それと同時に、その問題を解決することができる唯一の方法によって―すなわち独力で、そして一人で―それを解決したい、という誘惑を感じることでしょう。
……既成の宗教や、それに属している宗教家や、その聖典、教義、制度、儀式というものは、人間の根源的な問題に対して、誤った解答を与えているに過ぎません。
……人間の実存の根拠とすべきこの永遠の「真実在」に到達するのは、自己認識を通じてであって、誰か他の人間のシンボルを信仰することによってではないのです。
オルダス・ハックスレイ  本文 序文 より

三十八章からなるこの本は、昭和五十五年に日本に翻訳・出版されている。

思想家クリシュナムーティの言っていることは一貫しているように思う。
それは、『あるがままの自分を知ること』である。

『あるがままの自分』を知ることは、想像しているよりも難しい。
何かに逃げたくなったり、ついついよそ見をしたくなったり、理論武装したくなる。
自分を知ることの難しさと、反対に知ることも面白さも書かれており、『何だそんな単純なことか!』と考えていた。

恐怖について
たとえば私は孤独に対してある反応をするとします。
私は無であることが恐いと言います。
それでは私は事実そのものを恐れているのか、それとも私がその事実についての過去の知識(知識は言葉やイメージです)を持っているために、その恐怖が目覚めるのでしょうか。
一体事実に対する恐怖というものがあるうるのでしょうか。
私が事実に面と向かってそれを直視し、その真実と直接の親交を持ったとき、私はそれを見つめ、観察することができます。
それゆえ事実についての恐怖はないのです。
恐怖を引き起こすものは、その事実についての私の不安なのです。
その事実がどういうものであり、どういう作用を及ぼすかということについての私の不安なのです。
恐怖を生みだすものは、その事実についての私の意見、観念、経験、知識です。
その事実に命名し、それからその事実と同一化したり、またそれに非難を加えたりすることによって、その事実を言語化しているかぎり、あるいは思考が観察者としてその事実を外から判断しているかぎり、そこには必ず恐怖が存在するのです。
思考は過去の産物であり、それは言語化や象徴やイメージを通じて存在することができるに過ぎません。
従って思考が事実を斟酌したり解釈しているかぎり、どうしても恐怖が生まれるのです。
本文 抜粋

成程、クリシュナムーティの言わんとすることは、分かるような気がするが…。
この『分かるような気がする』が曲者なんだろうか?
頭で、彼の考えを理解しようとすると、どうやら『あるがままの自分』は理解できないようである。

心理学に大きな影響を与えたというクリシュナムーティ。
簡単そうで難かしい『自我』という者。
頭ではなく、思考ではなく、日々のその瞬間を掴む。
その時本当の自分が見えてくるのかも知れない。

クリシュナムーティは、生存中から伝説的人物になった数少ない人間の一人である……というのは、クリシュナムーティが、心理の領域で成し遂げたことは、物理学においてアインシュタインが行なった革命に指摘すると言ってよいからである。
アインシュタインの相対性理論は、光の速度は光源からの運動や光源に向かう運動とは関係なく、すべての状況において不変である。
という単純な事実を出発点にしている。
一方クリシュナムーティの出発点もそれと同じような単純な観察に基づいている。
それは、すべての心理的な苦悩は精神の中で始まり、またその中で終るということである。
つまり「精神は自ら作り出した牢獄である。」
したがって、変革と苦悩からの解放は、絶え間ない精神の活動が終焉することによってのみ、達成することができる。
ロバート・パウエル  『禅と真実存』 より

(J)

「自我の終焉 -絶対自由への道」