小池 龍之介  こいけりゅうのすけ
一九七八年生まれ。
一九九五年、僧籍を取得。
東京大学教養部卒。
寺院勤務の傍ら、二〇〇三年、ウェブサイト「家出空間」および、それが現実化された空間として、オテラとカフェの機能を兼ね備えた「iede cafe」を立ち上げる。
二〇〇五年、「月続寺」を創立しその住職となる。
出身寺である「正現寺」の副住職を兼務。
改めて修行に出るために、東京・世田谷で営む「iede cafe」は、二〇〇七年冬より冬眠中、そしていつか、何処かで再開。

自分のヨクボーは、お喋りがすぎて、うるさいのです。
自分のイヤイヤは、主張がすぎにて、うるさいのです。
自分のマヨイは、落ち着きがなきゆえ、うるさいのです。

すこしだけ、静かに。
すこしだけ、上品に。
優美なる、沈黙を、手習いしてみませぬ、か。
本文 抜粋

心理学と仏道って、ひょっとして似てるのかな?
この本を読んでふと思ってしまいました。

心のシステムをじっくりと観察する。
自分の欲望をただじっと見る。
その中で本当に必要としているモノが見えてくる。
なるほど!!

心の落ち着きは、一体どうしたら得られるのだろうか?
そのことの答えを、仏道と瞑想によって面白おかしく、しかしクール?に、描いてくれています。

可愛いイラストもなかなか素敵で、読むにやすし、実行はなかなか難しい事柄をふっと和ませてくれるもの素敵でした。

欲望とスピッドの共犯
そも欲望にまみれた行動てふものは、基本的に高スピードで駆り立てられているのではありますまいか。
そんなふうにして、欲望は人の精神を蝕んでゆくようにぞ思はるる。
欲に取りつかれた会話は、どうしても早口になります。
が、それを逆手に取りますならば、自らの欲望を縛りつけて(縛りつけるというのは、パンク服の基本的モードに侯はむ)コントロールするには、
あらゆる物事をスロウ・スピードで行うのがよい、ということになります。
食欲にとらわれることから脱するには、ゆっくり噛んで食べるのがよいということも今や常識かと思もわれますが、それもまた、スロウに動くことにより、食「欲」をコントロールする行為と解釈できるでせう。
それになぞらえ、言葉を垂れ流したくなる口の欲望を抑えるためスロウに話すのは如何、というのが先に書いた内容でありますが、仏道では、なおかつ言うべき言葉をチェックすることによって、スロウかつ慎重に話すということを説いています。
本文 抜粋

この本の筆者は、欲望を否定しているのでは無く、欲望をうまくコントロールし、必要なものとそうではないものを区分けしています。
また、ひとが何かを話す時、その自分が本当は何を欲望として抱いているかゆっくりと話しながら自分の内側に集中することをするようです。

非難の花粉症
非難を受けて傷つくことは、ゆっくりゆったりと、人の心を蝕み暗い感情へと陥れてゆきます。
たとえ1回のダメージは小さくても、自分でも意識しないうちに、ひそかに不快感は蓄積されてゆく。
まるで花粉を浴びるたびに、少しずつ、自覚症状なく、不快感の目盛りが上がり、限界が来たら突如として発症する花粉症のようであります。
この不快感のことを仏道では「瞋恚(シンニ)」ってふ特別な言葉で表現いたします。
要は何かを「嫌ダナー」と感じるときに心に蓄積される暗いエネルギィのこと。
その「瞋恚」=「不快感」の程度の差によって「漠然とした不満」<「ムカツキ」<「対象を消したい/壊したい」<「殺意」といった感情のグラデーションができてまいります。
暗いエネルギィは、私たちが普段意識できない、深い潜在意識(ムイシキ)の中に沈んで溜まり、種がまかれます。
その種が気づかぬうちに芽を出して噴出し、ネガティブな意思や行動へと私たちを駆り立てる動力になり候ふ。
怖いでせう?
本文 抜粋

この世に生きる限り、非難されないことってあり得ないって方が現実的。
じゃあどうしてその感情を取り扱う?

自分をよく観察し、スロウにじっくり観察し、心の中の嵐に気づき、自分をコントロールするんですね。
成程!!
〝上手くできるかなって”ふと考えてしまいました。

(J)

「自分」から自由になる沈黙入門