灰谷 健次郎(はいたに けんじろう)
1934年生まれ 2006年に亡くなる。
兵庫県神戸市に生まれる。
大阪学芸大学卒、17年間の教師生活の後、沖縄・アジアを放浪。
その後作家活動に専念し、1974年に『兎の眼』を発表、多くの読者の共感を得る。
1979年路傍の石文学賞受賞。
『天の瞳』『太陽の子』など著作多数。

てだのふぁ・おきなわ亭は、琉球料理の店であったが、なになに料理というようなお座敷料亭ではなく、その時々にこんざつする大衆的な店である。
ふうちゃんは、この店の一人娘。
年は11歳である。
沖縄生まれで沖縄育ちの両親のもとに生まれるが、神戸で生まれ育ったふうちゃんは、自分のことを「神戸っ子」と言っていた。
おきなわ亭には、沖縄生まれの常連客が、沖縄料理と泡盛を飲みに来る。
みんな気のいい優しい人たちばかりだ。

そんな折、ふうちゃんのお父さんが心の病に罹る。
いつも陽気にふうちゃんと話すお父さんが、口数が減り、元気なく黙り込んでいることが多くなる。

沖縄でのことが、お父さんの病気と関係するかも知れないことを知ったふうちゃんは沖縄のことを調べようとする。
しかし、お母さんや、店に来る人たちの沖縄のことを聞くが、誰もふうちゃんには話そうとしない。

不満に思ったふうちゃんは、学校の担任の梶山先生や、店でも沖縄通のギッチョンチョンの助けを借りて、戦争当時の沖縄のことを調べていく。

あまりの無残さに、眠れない夜があったり、気分が悪くて吐いたり、悲しみの涙があふれることばかり。

キヨシ少年は、沖縄から神戸に来てお母さんから捨てられたと言う。
ギッチョンチョンの所にいたが、お金を盗み、逃亡。
そんなキヨシ少年の心は荒れ果てていた。

おきなわ亭に来たキヨシ君は、頑なに心を閉ざしていたが、やがて、皆の優しさやふうちゃんの態度に、心を開いていく。
ろくさんは、左手がほとんどない。
手榴弾で手を失った。
ひとりで泣くろくさんは、自分の過去は話さない。
誰も聞かない。

忘れてしまいたい過去は、誰のなかにもある。
そのことをそっと優しく皆は見つめる。

梶山先生はそういいながら、古いグラビア雑誌をとり出してきた。
女性とも男性ともわからない人が、医師の治療を受けていた。
「広島に落とされた原子爆弾の放射能で、皮膚がずる剥けになった人だ。
男とも女ともわからなくなっているだろう。
女の人だ。
頭の毛が、いっしゅんにして抜け落ちてしまったんだね」梶山先生はつぎのページをめくった。
同じようなひとたちが、あちこち、むしろの上に寝かされているのだった。
目が白く光っていた。
「この人たちは、やがて、みな死んでしまっただよ。
広島の被害者は三十万六千人だったというからね」沖縄といっしょや‥‥‥と、ふうちゃんは思った。
三人にひとりは死んだという沖縄戦のことを思ったのだった。
「この前、ちょっと話したことがあるけれど、神戸だってたくさんの人が死んだんだ。
これは三月十七日の神戸大空襲の写真だ。」
梶山先生は、それを神戸駅の近くだといった。
ふうちゃんの学校のすぐ近くだ。
電柱が折れ、一面、焼け野原だった。
市電の軌道に、馬が一頭、黒こげになって死んでいた。
みんなその写真を食い入るように見ていた。
ふうちゃんは、あっとおどろいた。
道路のはしに片づけられている黒こげの木切れやレンガと思っていたものは、じつは焼けただれた死体だったのだ。
教室中にざわめきが起こった。
本文 抜粋

かなしいことがあったらひとをうらまないこと
かなしいことがあったらしばらくひとりぼっちになること
かなしいことがあったらひっそりとかんがえること
本文 抜粋

ふうちゃんのお父さんの心の病気は、ますます悪くなる一方である。
ついにお母さんは、お父さんの故郷の沖縄・八重山に行くことを決意する。
沖縄へ帰ることへの期待はお父さんに望みを与えるのだが……。

ふうちゃんは皆は優しい人たちだと思っていた。
そして、沖縄のことやみんなの過去の苦しみを知っていくうちに、その優しさの中にどうしようもないくらいの苦しみや悲しみ・怒りや絶望があることを知る。
そして、彼らの優しさは、強さでもあり、そして、また、苦しみや悲しさの果てに持ち得た強さでもあることを知る。

(J)

「太陽の子」