Pat Ogden (パット・オグデン)
米国コロラド州ボルダー市にあるセンサリーモーター・サイコセラピー研究所の創始者であり現所長。
ロン・クルツと共にハコミ研究所の創設者の一人でもある。
30年以上の経験豊富な心理療法家であり、世界各地でセンサリーモーター・サイコセラピーの指導と教育にあたっている。
「The Body as Resouce」を執筆中。
インナー・チャイルドを中心とした(子ども時代の)トラウマを扱うハコミ・セラピー。
その創始者であるロン・クルツが亡くなって数年が経つ。
私自身も、ロンとトレーニングで出会い、沢山のことを学び、沢山の涙を流し、そして笑い、多くの輝く人たちに出会った。
その懐かしい思い出と共に、今も私は居る。
ここ数十年の脳科学の解明は、さらに、色々なことを心理療法家達に教えてくれる。
この「トラウマと身体」は、トラウマが脳の機能に与える影響を解明し、トラウマがその後の人生にどのような状態をもたらすのかそして、セラピーをどのようにする必要があるか、何がより効果的で、身体的に扱う必要があるかなどが書かれている。
認知処理 (cognitive processing)
「認知処理」という用語は、概念的思考、論理的思考、意味の創出、問題解決、決断にかかわる能力をさします。
これは、体験を観察して、それを要約し、行動に関する可能性の幅を測り、目標達成を目指して計画を立て、結果を評価するという広範囲の能力を意味します。
大人としての私たちは決断の行動は、しばしば、意思的認知処理を感覚運動的、情動的反応よりも優先させるという階層的関係性をもっています。
たとえば、私たちは決断(認知機能)によって空腹感を無視して、唾液分泌、胃の収縮など空腹に関連する生理反応が継続しているときでも、空腹に対応した行動をとらえないことができます。
認知理論では、この認知機能の優位性は「トップダウン処理」と呼ばれています。
上位レベルの処理(認知的)が下位レベルの処理である情動処理や感覚運動処理を操作したり干渉したりして、それらを圧倒し、方向づけ、あるいは邪魔するという意味です。
………
しかし、トラウマ被害を受けた人にとっては、トラウマ関連記憶の情動の激しさと感覚運動反応によって、トップダウン処理がもっている皮質下部の行動を抑える能力が妨げられてしまいます。
本文 抜粋
トラウマ被害にあった人は、行動のガイドとしての情動をあてにできなくなるという特徴があります。
失感情症(情動に気づき、それを言葉にする能力の障害)になるかもしれません。
自分の情動から切り離され、感情が平板化して、興味ややる気のなさ、行動力の欠如を訴えるかもしれません。
または、情動が行動をせき立てるものとして体験されるかもしれません。
情動を省察して、行動を導く情報の一部とする能力が失われているのです。
そして、情動表現が爆発的で制御のきかないものとなってしまいます。
トラウマ被害者は、出来事の非言語的想起が引き起こされると、以前のトラウマ体験の情動内容を再体験して、強烈なトラウマ関連の情動に翻弄されるようになります。
これらの情動は衝動的で、効果のない、葛藤的かつ非合理的行動をもたらすこともあります。
身体的または言葉による激しい攻撃や、無力感、凍りつき、麻痺を感じるなどです。
しばしば、現在の(非トラウマ的)環境にとって適応的でない行動を引きおこします。
しかし、おそらく、それらはもとのトラウマに対しては適応的反応の一つともいえるのです。
本文 抜粋
交感神経系は、脅威への反応として、進化的に、社会的関わりシステムより原初的です。
その活性化では柔軟性がなくなり、すべての覚醒状態を増加させ、生存のメカニズム(逃走および逃走行動)を準備します。
交感神経系の調子が高い場合、覚醒状態は耐性領域の上部境界に向かって亢進します。
危険が脳によって知覚、解釈されると、心身の連鎖反応が動き始めます。
すなわち、扁桃体が「警鐘を鳴らす」と、交感神経系が視床下部によって「スイッチがオンに」なり、覚醒状態を亢進させる神経化学物質が放出されます。
本文 抜粋
様々な心理療法が、トラウマの技法を駆使し、少しでもトラウマ処理の役に立つようにと思考し、そしてさらなる工夫をしている。
フロイトのヒステリー、いや、それ以前の動物磁気の時代から、『なぜ人の心は苦しむのか?』という事の答えを人々は模索してきている。
どの療法にもそれぞれのメリットはあるだろう。
ソマティック(身体的)なアプローチを持つハコミセラピーや今回のセンサリーモーター・サイコセラピーも時代の中で、人々の努力の中でより完成度の高いセラピーを目指している。
今回紹介した文章は、「トラウマと身体」の中のほんの一部に過ぎない。
長くトラウマを放置した結果、疑認知症や偽統合失調症のような症状が出る場合もあるという。
自分を見つめることは、時に苦しみと向き合うことに繋がる。
その苦しみは、怒りや悲しみ・淋しさに通じる。
しかし、その果てにある静寂と満ち足りた思いは、その人自身のものである。
(J)