白石 一文 (しらいし かずふみ)
1958年福岡県生まれ。
2000年のデビュー作『一瞬の光』から注目を集める。
読む者に緊張を強いる文章で作品世界に引き込みつつ、人間が生きることの大切さを突き詰める。
『草にすわる』は生への衝動的な覚醒を描き、多くの読者の感悟を呼ぶ
「自分がいずれは死んでしまうー
という事実の奥深い意味を捉えない人間は、必ずや自らを殺すか、他人を殺すかのどちらかを選択しなければならなくなってしまうことだ。
この世界のただならぬ無慈悲さの正体は、ひとえにそうした選択を迫られてしまうことにある。」
本文 抜粋
あなたは、性善説か性悪説か、どちらかを選ぶとしたらどっち?
それとも、今までの生きてきた過程が、その人の人生を決めるのだろうか?
登場人物は、まず、「僕」。
彼が主人公である。
29歳で名前は 松原直人である。
東京大学を卒業後、給料がいいので出版社に入った。
郷里の九州には、母親と4歳年下の妹がいる。
母親も自分も、父親から早くに捨てられ、母親は3年前から病気で寝込んでいる。
「僕」には恋人と呼べる3歳年下の枝里子が居る。
美人でファッション関係の広告担当のプランナーをしている。
朋美は「僕」より5歳年上。
スナックを一人でやっていて、拓也という4歳の息子を育てている。
それと、貿易商の妻の大西昭子は、「僕」と性的関係を持ち、その報酬をもらっては、病身の母親にお金を送っている。
焼き鳥屋で働く青年や女子大生のほのかなど、「僕」を取り巻く様々な人がいる。
「僕」は、枝里子、朋美、昭子と関係を持ちながら、枝里子には苛立ちと優しさを、朋子には独特の存在感を感じ、昭子とは性とカネの関係と割り切る。
一方で、朋子の息子の拓也を親身に可愛がる。
母親は「僕」と妹をほとんど顧みず、「僕」は、ひたすら妹の為に生きた。
高校の頃に知り合ったパーキンソン病を患う真知子さんとの出会いは、「僕」にとって、大切で意味のある出会いでもあり、また、同時に、本との出会いでもあった。
病で「死」と直面しながら、人生を生きる真知子さんの傍にいて、「人は必ず死ぬ」という当たり前のことを心に刻みつけながら、生きることの意味を探る。
どんな偉い人でも、かしこい人でも自分の顔を自分で見た人は一人もない。
やっと鏡で見て、そこに映ったかげを見て自分の顔を知ることができるに過ぎない。
人の顔ならいつでも見えるが、自分の顔は死ぬまで見えない。
そこで鏡が必要であるように、自分を知るために反省が必要であり、反省の鏡として宗教的教養がいるわけだと思います。
大根よ、お前は何のために生またのか、と聞かれたら、私は「ためなしに」生れた。
何の目的も決めず、自分の力もなく、全く生まれさせられたのです。
神の摂理によって生まれさせられた。
そうして、人間の丹精によって育てられましたと答えるでしょう。
それでは何のために生まれさせられ、育てられて来たのだと考えるかと聞けば、多分、それは私を人間に食わせるために生まれさせられ、人間はまた私を食うために育てたらしい。
どうしてそんなことが言えるのか。
それは私の祖先、大根の一族は代々人間に食われて来た。
私もやがて食われるだろう。
私の子孫もすべて人間に食われるでしょう。
だから、人間に食われるために生み出され、育てられて来たものだと思います、と答えるでしょう。
そこで大根が自分の方を向いて、自分の都合だけで考えるとします。
俺の祖先も人間に食われた。
俺もやがて食われる。
思えば情けないことである。
人間と大根の関係は倶に天をを載かない敵の間柄である。
食いつ、食われつの間柄なら五分五分だが、食われてばっかりきた。
全くなさけない。
この祖先のうらみを晴らし、子孫の禍をも絶つために俺が敵討ちしてやろうと考える。
そこで物凄いニガ辛い大根になる。
食った人間がまったくコリゴリするくらいにニガクなったら、確かに敵討ちは出来る。
しかしその後に来るものは「こんなにニガ辛い大根は二度と作るべからず」となって子孫断絶の運命となる。
自分の都合のみから割り出す考え方は亡び行く運命の道であると思います。
本文 抜粋
何が悪で、何が善か、ホントによく周りを見て観察しないと解らないものですね。
そして、どう生きるかも、自分で思うよりも不確かなものかも知れないですね。
(J)