内田 樹 / 池上 六朗

フランス現代思想の専門家である、内田 樹さんの著書に「寝ながら学べる構造主義」という本がある。
池上六朗さんは、「三軸修正法」の主催者。
一見、出会いそうもない二人が、この「寝な構」という本を媒介に出会う。
偶然が偶然を呼んだような二人の出会いは、まさに、心理学者のカール・ユングがいう共時性のごとく映る。

共時性(synchronicity)
ユング(Jung,C.G.)の提唱した概念で、
非因果的関連の原理。
2つの出来事の意味ある符号のことで、狭義には内的イメージと外的世界における出来事の間の意味ある一致のこと。
因果的には説明できない共時性を前にして、人は存在が揺さぶられるような強烈な情動を体験し、それが治療的に働くことがある。
共時性と単なる無意味な偶然とを区別するのは、この情動的要因である。
共時的現象を理解するには、
物理的な大宇宙と人間という小宇宙との照応に心が開かれていることが必要である。
カウンセリング辞典 より

武士道を志していた内田さんは、かなり詰めて稽古をしていたらしい。
いろいろな所が痛み、「油が切れた」状態になり、ついに膝が歩けないほど傷んだ。

彼の武道修行は、単なるエクササイズや趣味や健康法ではなかったらしい。
「探究」なのであり、仕事である哲学や文学のエリアでの「人間というシステム」についての理解するためのものだったらしい。

「合掌するために踵を合わせて、体軸をまっすぐに整えるわけです。
自分の体軸を鉛直方向(重力の方向)に合わせる。
体軸がまっすぐかどうかというのは、どこかに「まっすぐなもの」がないとわからない。
体軸をまっすぐにすることは、「何か」にアライアンスを合わせることではないのか。
この「何か」って何だろうということを考えたんです。
・・・・・・・
「宇宙の真ん中に軸を立てる」という言い方をすることがあります。
天地を貫く一本の軸がある。
その軸に自分の体軸を合わせるとアライアンスが合う。
道場に立って、稽古の前にまずアラインメントを合わせる。
それは自分が「正しい時、正しい場所に、正しい仕方でいる」ということをまず確認するというか、断定することだと思うんですね。
ライト・タイム、ライト・プレイスですね。
本文抜粋

身体と心は密接な関係がある。
内田さんの歩けないほどの膝の痛みは、数か月で治る。

二人の話は、心の在り方にも及ぶ。

承認された経験の貧しい人は、他者の承認がないと立ちゆかないから、絶えず周りの人の顔色をうかがってしまう。
こっちがいいのかな、あっちがいいのかな、どっちをやったらほめられるかなって、いつでも何かを達成しなくてはならないという強迫観念にとらわれている。
自分で高い目標を設定して、これだけのことを達成したら、このアティーブメントに対してきっとみんながほめてくれるに違いないという期待をエンジンにして仕事をしちゃうから、ずーっと苦しいわけですよ。
だって、目標は百点満点であって、それからの減算方式で今の自分の位置を決めているんだから。
九十九点でも、「まだあと一点足りない」というふうにしか評価できない。
それだけみごとな仕事をしていながら、
成し遂げていない部分しか目に入らない。
だから、いくらやってもストレスが消えない。
本文 抜粋

一方、池上さんは、富山商船学校を卒業後、航海士として世界中を航海する。
金属熱処理・金型製造・商品開発など、様々な職業を経る。

「ソーヴ・キ・プ」(sauve qui peut)ですね。
船が沈む時とか、前線が崩壊した時に船長や指揮官が最後に部下に告げるのがsauve qui peut という言葉なんです。
「生き残れよ。」

商船学校の最初の教育って、ノーブレス・オブリージュ(noblesse oblige)なんですよね。
自分自身をつくれ、というのかな。
デューティですね。
レスポンスビリティー(responsibility)というのは与えられたことに対しての責任感ですし、アカンタビリティー(acountability)というのは何か知ったことに対する責任ですけれども、それ以前のことですね。
腹の辺りから突き上げてくるようなディーティというか。
そういうものがないと、いざとなった時に恰好よくないです。
そこでふんばれるかどうか、一緒に逃げてしまうのか。
本文 抜粋

対談形式で語られるこの本。
内容は主に身体と心のことである。
が、色々な経験からくる知恵も交えて書かれている。

『骨のある男二人の言い分』

屈託のない語り口に、思わず、口を挟みたくなるところもあるが、人生を実直に生きる二人の言葉は、どこか、腹に浸みこむ感じがする。

思いのまま、流れのままに生きる。
うらやましいような、そして自分にも出来そうな、そんな感じのする本である。

それが、本を読んだ『私の言い分』である。

(J)

「身体の言い分」