原書第4版 S.I.ハヤカワ 大久保忠利訳
1985年初版のこの本は、今なお、その輝きを失っていない。
言語は、意味を持つ。
言葉の働きは、様々であり、必要不可欠なものでありながら、決して、すべてのことを言い表すことは出来ない。
言語の意味論・ソシュール・言葉と地図の関係など心理学的洞察も含めて書かれている内容のある。
そして、意味深い本である。
「二値的考え方」ということばはアルフレッド・コーズィブスキーが作った用語である。
かれの主な関心は、人の意味的反応において、健康か異常かを決定する思考の方向づけにあった。
かれは二値的考え方を、原始的な、
または情緒的に混乱した見解を特徴づけるものとしてのべているが、彼は二値論を攻撃していたのではない。
われわれが算術に使うような普通の論理は、正に二値論理である。
普通の算術のワク組の中では二プラス二は四である。
これが「正しい」答えで、他の答えはすべて「誤り」である。
幾何学における多くの論証はいわゆる「間接証明」 (indirect proof)によっている。
ある命題を論証するためには、その反対の命題を取り、それを一応「真」と仮定して、
その後の計算でそれを明白な矛盾に導く。
このような矛盾はその命題が「偽」であることを証明する。
そこで元の命題は「真」であると見なされる。
これも二値論理の適応である。
この点では、コーズィブスキーもまたわたしも算術や幾何と争おうとは思わない。
本文抜粋
論理は、言語の使用の首尾一貫性を支配する一連の規則である。
われわれは「論理的」(logical)である時には、われわれの叙述には矛盾がない。
それらは「現地」の正確な「地図」である時もあり、そうでない時もある。
しかし、それらが、そうであるかないかは、論理の領域外である。
論理は言語についての言語であり、物や事がらについての言語ではない。
二升のはじき玉プラス二升のミルクが四升の混合物にならなくとも[はじき玉のすきまにミルクが入る]、「二プラス二は四」という叙述の「真」には影響しない。
なぜなら、この叙述の言っていることは、「四」は「二と二のと総称」の名であるというに過ぎないからである。
「二プラス二は四」というような叙述について、二値的質問が「真か偽か?」と問うのは、次の意味である。
「それはわれわれの体系の他の部分と矛盾していないか?
もしそれを受けいれても、結果的に自己矛盾におちいることなく、辻褄があった話をすることができるであろうか?」
本文抜粋
また、神経衰弱のメカニズムの説明として、
ネズミを神経衰弱に導いたのは、その問題の「解決不可能性」である。
マイヤー博士が、情緒不安定の子どもや大人の研究で示しているように、ネズミも人間も大体同じような段階を通って行くようである。
第一に両者ともに訓練によって、ある一定の問題に直面すると一定の選択を習慣的にするようになる。
第二に、条件が変わって、その選択が予期せぬ結果をもたらさないことを知って、ひどい衝撃を受ける。
第三に、その衝撃か、不安か、挫折を重ねるうち、かれらは初めの選択に固執して、結果の如何にかかわらずその固定した選択を続ける。
第四に不機嫌になりまったく行動しなくなる。
第五に、外から強制されると、ふたたび初めに訓練されたように行動し、そして、ふたたび鼻をぶつける。
そして遂に、たとえ目の前に目標物が見えていて、別のやり方をすればそれに到着できる場合にも、かれらは挫折感から狂気におちいる。
かれらはやたらと走り廻り、またすねて隅に身を寄せ、食べようともしない。
苦痛を噛みしめ、冷笑的になり、幻滅を感じ、何が起ころうと気にしなくなる。
本文抜粋
夫の欠点を治そうと、妻はがみがみ言う。
夫の欠点はさらにひどくなり、妻はさらにがみがみ言う。
妻がそれを永く続けるほど、事態は悪くなっていく。
本文抜粋
今、私たちの住処である地球が、この神経衰弱のメカニズムの陥っているように思う。
そして、このメカニズムから抜け出すには、出来る限り正確な地図が必要になる。
また、自分自身の正確な地図も必要だろう。
(J)