hon20150812西 加奈子 Nishi Kanako

1977(昭和52)年、イランのテヘラン生れ。
エジプトのカイロ、大阪で育つ。
2004(平成16)年に『あおい』でデビュー。
翌年、一匹の犬と5人の家族の暮らしを描いた『さくら』を発表、ベストセラーに。
’07年『通天閣』で織田作之助賞を受賞。
’13年『ふくわらい』で河合隼雄物語賞受賞。
’15年『サラバ!』で直木賞受賞。
その他の小説に『窓の魚』『きいろいゾウ』『うつくしい人』『きりこについて』『炎上する君』『ふる』など多数。

温泉宿で一夜を過ごそうとする、二組の恋人たち。
静かなナツ、優しいアキオ、可愛いハルナ、無関心なトウヤマ。
それぞれが心に秘密を秘めて、それぞれの欠落を隠す。
そして決して交わることなく、お互いを求める4人だが。

そしてその静かな温泉宿で
翌朝一体の死体が残される。

ナツ
バスを降りた途端、一人ではしゃぐアキオは川が好きだ。
アキオの霧雨のような柔らかな髪を風がふわふわと持ち上げる。
とても優しい風だが、それは何かを訴えるように冷たく、薄い肌をたちまち冷やしてしまう。

ナツはふわふわとした女の子だ。
ナツは、いつか誰かと温泉に来たような気がするが、それがアキオだったかも思い出せない。

一泊なのに、
ハルナはたくさんの荷物を持ってきている。
買ったばかりの皮のボストンバッグには、
女でも驚くほど物が詰まっていた。

ハルナはバニラか生クリームのような、甘ったるい匂いがする。
その香りをナツは好きではない。
ハルナと露天風呂に入り、四人で食事も済ませる。

再び露天風呂に入ったナツは、風呂の中で妖しい人に出会う。

トウヤマ
夜明けまで仕事をして一睡もせずにこの温泉旅行に来た。
宿についてすぐに眠りようやくお腹が空いた。
バスの中でタバコが吸えなくて大変だった。

ハルナほどよく喋る女は初めてだった。
ナツほど喋らない女も初めてだ。
不機嫌にさえ見えるナツのことをアキオは良く気にかけていた。
そんな時ナツは感謝をこめた目でアキオを見るが、
またうわのそらでぼうっとしている。

ハルナとは一緒に暮らしている。
出会ってすぐに自分の荷物を部屋に持ち込んできた。

そんなトウヤマに電話が入る。
『あの女だ。』

ハルナ
店が終わるのを待って、そのままトウヤマ君の部屋に行った。
それからバイトをうんと減らした。
トウヤマ君から離れられなくなった。

温泉に来てすぐにトウヤマ君は寝てしまった。
いつもなら少しの気配や物音で起きるのに、「風邪ひくよ」と声をかけても、「ねえ」と強く揺すっても起きない。
よほど疲れているのだろう。

ナツと露天風呂に入った。
ナツは何を考えているのか、あまりよく分からない。
裸で椅子に座って、ぼうっと何かを見ている。
タオルで体を隠そうともしない。

ナツが嫌いだ。
綺麗なナツが嫌いだ。

綺麗になるために母親からお金を貰っている。
母親も協力するといっている。

工場の制服を着て薄汚れた白に、細かな青にストライプ。
髪を全部丸い帽子の中に入れて、顎にマスクをかけている。
頬には茶色いしみ。目尻がだらしなく下がり、煙草を吸おうとすぼめた唇は、
かさかかと乾いている。
そんな母親だった。

アキオ
アキオは小さい頃から体が弱かった。
運動もみなと同じようにできなかった。
給食の牛乳の冷たさはいつも脅かされるものだった。

家にはミルという名の犬がいた。
ミルが好きだった。
体の弱いアキオはミルに近づくことは許されなかった。
ミルはアキオが生まれたときにはもう家にいた。

小学校3年生のときミルは死んだ。
最後は白内障になった真っ白な目を虚ろに開いて、曲がったままの首で、鎖にずっと繋がれていた。
糞尿を垂れ流し水を飲むのもままならない有様だった。

元気なミルも好きだったが、こんな窮状になったミルをこそ愛した。
皆があれほど嫌がった汚い体を、健康的であったときよりも熱心に撫でた。
糞尿にまみれただれた尻を愛した。

不思議と体がぞくぞくした。
僕より弱い者、小さな者がこの世にいるのだと思うことが、
僕を慰め、味わったことのない愛情を抱かせたのだった。

それぞれがそれぞれにいろいろな思いを抱く。
語られないがままに心に秘めて、その思いを抱く。

何かを見て何かを知る。
微妙な心の襞が語られていく文章は、
秘かに心に惹かれるものでもあるのだろうか。

一体池に浮かんだ死体は誰?
謎は最後まで明かされない。

(J)

 

「窓の魚」