hon20150902小池 真理子 こいけ・まりこ

1952年東京都生まれ。
成城大学文学部卒業。
89年「妻の女友達」で第42回日本推理作家協会賞(短編部門)、96年『恋』で第114回直木賞、98年『欲望』で第5回島清恋愛文学賞、
2006年『虹の彼方』で第19回柴田錬三郎賞受賞。

男食いの女

その朝、ポン太が死んだ。
ふざけた名前だが、れっきとした血統書つきのオスの秋田犬である。
性格は無邪気で人なつっこく、そのうえ物凄い生命力があった。
一度、鎖をはずして散歩させていた時、走って来た乗用車にはねられ、肋骨を三本折る大怪我をしたことがある。
出血が多く、獣医も匙を投げかけた。
だが、彼は瀕死の床からみるみるうちに甦った。
以来、病気ひとつしたことがない。
何でもよく食べ、
運動が大好きで、冬の凍てつくような夜でも新聞紙を敷いただけの小屋で悠々とした姿勢で眠り、真夏のうだるような暑さの中でも、庭中を駆け回る元気な犬だった。
そのポン太が死んだ。
朝、行ってみると冷たくなっていたのだ。
百瀬美佐子は信じられない思いで、涙も出てこなかった。

本文 抜粋

ポン太は美佐子の父親が死んだ時も、
その後、父親が経営していた計器機会社が危うく倒産しかかった時も、美佐子の弟の孝男が後を継いで、やっとの思いで立ち直らせた時も、美佐子の妊娠が分かった時も、いつも一緒だった。

9歳のこの犬の死をきっかけに、美佐子は自分の思いがけない心の世界をみることになる。

美佐子の弟の孝男の妻は留美子。
まだ亭主を見送る前だというのに、小花柄のエプロンをかけ、きちんと薄化粧をしている。
スーパーの洋服売り場で誰でも買えるような安物の野暮ったいスカートをはいていても、留美子が着ていると、むしろ清楚で古風な印象を与え、清潔な色気すら漂った。

留美子はとりたてて美人というのではなかったが、どことなく愛くるしくて清潔で控えめな女性だった。
美佐子も弟によくやったと褒めてやりたい気分になるような人だった。
だから弟から留美子と弟の結婚が3度目で、二度とも夫の死なれていると聞いても、
美佐子はさほど驚かなかった。
年寄りたちは口を揃えて、いまどき、あれほどよく働く、可愛い嫁などいやしないと褒めた。

だが、ある時、美佐子は妙な話を聞く。
教えているピアノの生徒の祖母が雨振りの中を孫を迎えに来た折のことだった。

その老婆が留美子の母親で同居している初枝さんも三度亭主に死なれていることを告げる。
不思議な話で、親子して亭主に死に別れているらしい。
年よりの戯言として、老婆は『男食い』の話をする。

男に縁のない『男食い』
関わる男や飼っているオスもどんどん死んでしまう。
美佐子はふとポン太の死を『男食い』と結び付けて、気になりはした。

やがて美佐子は男の子・一樹を生み、幸せの日々を過ごす。
留美子さんも初枝さんも、大層喜びで、何かと面倒を見てくれ、家の中には笑いが絶えなかった。
美佐子は一時でも二人をポン太の死と結び付けたことを恥じた。

しかし、一樹の突然死は、美佐子にショックを与え、やがて、『男食い』が美佐子の頭から離れなくなってしまう。
苦しみが苦しみを生む。
疑いが疑いを生む。

疑心暗鬼の世界を彷徨うことになった美佐子は、やがて、一つの決意をするが、その決意はまた一つの悲劇を生む。
そして最後に辿り着いた結論は、ただの疑いに過ぎなかったという。

(J)

「妻の女友達」