hon20150909山極 寿一  yamagiwa juichi

1952年、東京生まれ。
京都大学大学院博士課程修了。
現在、京都大学大学院理学研究科教授。
日本霊長類学会会長。
専攻は霊長類社会生態学、人類進化論。
主な著書に『ゴリラ―森に輝く白銀の背』『ゴリラとヒトの間』『家族と起源―父性の登場』『ゴリラ』など。

霊長類の社会は他の哺乳類とは違う性質をもつという。
私たち人間が世界を認知する能力も、仲間との間に起こす葛藤も、闘う能力も、すべて霊長類として進化した時代に身につけたものであるらしい。
人間の争いの原因も、争いや和解の方法も、彼らから受け継いた特徴の中にみつけることができるはずである。
本書はまだよくわかっていない人間社会の由来を考えてみようとする試みである。

野生のチンパンジーも集団で戦う。
血縁関係にあるオスたちが集団を組んで隣りの群れの行動域へ侵入し、単独でいるオスやメスを襲って噛みつき、引き裂き、死にいたらしめる。
こうした暴力沙汰がタンザニアのゴンベとマハレ、ウガンダのキバレで知られている。
オスたちの多くは襲撃者たちの群れに加入した。
こういった戦いによって、襲撃したオスたちは隣接する群れの土地もメスも手に入れた、と研究者たちは指摘する。
こういったチンパンジーの戦いとと人間の集団間の戦いには、明らかな違いがある。
それは、チンパンジーのオスたちは自分たちの利益と欲望に駆られて起こしているのに対して、人間の戦いは常に群れに奉仕することが前提になっているからだ。
チンパンジーのメスたちがオスたちの戦いを支持し、オスたちを勇気づけたり鼓舞うすることはない。
しかし、人間の男たちの戦う意味は、家族を生かすために、共同体の誇りを守るために、傷つき死ぬことである。
チンパンジーのオスたちは死を賭して戦うことはない。
自分が同胞を組んでいる相手との力関係と勝利の可能性が、戦いを起こす動機と決定を大きく左右する。
人間の戦いはそういったバランスシートでは解釈できない。
ときには負けることがわかっていても戦わねばならぬ時がある。
それは、戦いに勝つことだけが目的ではないからだ。
家族や共同体の一員としてふさわしい行動をしめさなければ、自分ばかりでなく家族もまた生きていくことができない。
あくまで人間の戦う動機は共同体の中内部にある。
現代の戦争は、そういった人間の社会性と心理を偽善者がうまく操り、国家や人族集団に奉仕させようとして起きるのだ。

本文 抜粋
人間は、食べ物を分かち合う。
生まれてくる子供に母親や父親は、ほぼ無償で食べ物を与える。
しかもそのことで優劣をつけない共同体を作り出した。
食べ物を共に食べるということは、共感は人間の特性でもあり、それを共に食べることにも関連しているのだろうという。

共同体とは家族の延長であり、分かち合いの精神によって支えられたまとまりである。
互いに顔を知り、噂話を聞けば相手の顔を思い浮かべることができる。
但しその人数は150人程度が限界らしい。
共同体の拡大は、その内部での互酬性を維持するための社会的コストを増すことになった。
戦いの規模や頻度が増加したのは、人間が共同体の規模を広げようとしたからだという。

人間は言語と土地を所有する。
そして死者につながる新しいアイデンティティの創出によって、つまり先祖・亡くなった父母・親族からのものという考え方を身につけた。
言語はバーチャルな共同体も生み出した。

霊長類のテリトリーを保つためには、一日の移動範囲に比して行動域が見回りできる範囲である。

農耕の出現は人々に土地の利用法を大きく変え、共同体内部の関係の大きな影響を与えた。
土地に侵入して作物に被害を与える昆虫や害虫、害獣は駆除する。
収穫はこれらの労力に見合う報酬であり、仕事を分担したものと平等に分かち合える。
土地の所有権を個人や集団に帰属させ、そこに投資して利益を得る権利を明確にする必要がある。

世界に住む霊長類の観察や人付けに取り組んできた筆者の、チンパンジーやゴリラ・サルの観察は、読んでいてとても興味深い。

インセスト回避の原則は類人猿にもあるという。
食と性、集団性と孤立性・オスとメスの関係性など、類人猿にも様々な形態があるという。

その報告の中から、筆者は話を暴力へと向ける。

現代は、情報革命を経験しつつ、その中で集団意識が変化している。
同じ価値観を持つネットでの知り合いを持ち、同じ考え方の人を世界中に見出すことができる。
そしてその変化は、今までの共同体の意識を変えていき、そしてまた、個々人の人に意識も変えていくことができるのだろうか。

(J)

「暴力はどこからきたか」 人間性の起源を探る