hon20150925沢木 耕太郎  さわき こうたろう

1947年東京生まれ。
70年に横浜国立大学経済学部卒業。
若きテロリストと老政治家のその一瞬までのシーンを積み重ねることで、浅沼稲次郎刺殺事件を描ききった本書『テロルの決算』で79年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
『一瞬の夏』『深夜特急』『壇』『凍』など常に方法論を探索しつつノンフィクションに新しい地平を開いてきた。

昭和三十五年十月十二日、日比谷公会堂の演壇に立った社会党の浅沼稲次郎が、刺殺された。
浅沼を刺殺したのは、若干17歳の少年「山口二矢(やまぐちおとや)」だった。
浅沼を指した後、二矢はその場で自決する覚悟でいたが、場内にいた刑事に刀を握られてしまう。
その刀を引き抜かなければ自決できない。

思いっきり引けば、刀を素手で握っている男の手はバラバラになってしまうだろう。
正対した刑事の顔を見つめ、二矢は、自決を断念し静かに手を離した…。

その後二矢は、獄中で自殺する。
遺書はなかったが、支給された歯磨き粉を水に溶き、人差し指で壁に、《七国報国 天皇陛下万才》と書いた。

61歳の野党政治家と17歳のテロリストを、その事件に至る二人の経緯を描いた物語である。

二矢には朔生という名の兄が居た。
父の名前は晋平、母の名は君子。
二矢が大日本愛国党に入党する引金になったのは、兄・朔生の逮捕だという。
高校2年生のときである。

小さい頃から身体も弱かった二矢は、苛められては兄に助けられた。
目立たずおとなしかった。
また小さい子どもの面倒もよく見て、慕われていたという。

しかし二矢の、共産党や社会党などの左翼に対しての態度は、周りにいる人も心配するほど過激だったという。
暴力行為や傷害罪で検挙されることもたびたびあり、年端もいかぬ二矢の将来を心配して、母親や周囲の人の中にはいろいろな事を忠告するが、躾の行き届いた態度とは裏腹に、あくまで、自分の生き様を貫いたという。

万年書記長ともマアマア居士とも、人間機関車とも呼ばれた浅沼稲次郎は、その政治家としての生涯において終生変わることなく冠せられたのは、「庶民的な」という形容詞であった。
人から頼まれるとどんなことでも引き受けた。
飾るところのない、構えるところのない自在さをもつ浅沼は、「底抜けに善良な沼さん」というイメージを持たれた。

『私の履歴書』が、ほとんど唯一自分自身のことを書いたものであるが、よく知られた浅沼以外のものは
まったく書かれていなかったという。

浅沼は『庶子』であった。
そして、二度にわたって『狂気』を帯びた時期があった。
父・半次郎は八丈島からの移民者で、笹本重兵衛という下級武士の息子だった。
母は浅岡よし。
父と母の性が違うのは籍を入れなかったからである。
なぜ入籍しなかったのかは分からないらしい。

重兵衛の代に三宅島に渡り、浅沼の株を買い取り、浅沼の姓を名乗り定着する。
半次郎は村役場の書記を務め名主をする。
独学で書をし小さな村をまとめる能力と、村人の暮らしを良くしようと情熱を注ぐ。
村人の長年の願いでもあった医者を村に入れるが、無資格の食わせ物にあたり、村を去ることになる。
そして東京に暮らし、後に稲次郎は養子として浅沼家に入ることになる。

実の母や家族と離れ、住み慣れた土地を離れての暮らしは、さぞかし、孤独であったことだろう。
進学をめぐり父親と対立した浅沼は家を出て、
早稲田の予科に編入する。
学生運動から無産運動に突き進み、
「世の中を変えたい」という正義感は、
やがて社会主義への道を開く。

山口二矢について書きたいという思いを抱いた筆者が、夭折者(持っていた才能を開花せずに、早死にした人のこと)としての彼を書く。
当初、本書の脇役としての位置づけにあったらしい浅沼稲次郎が、61歳の生涯を閉じるまでの愚直な人生の悲しみも、若くして閉じた、明確で一直線な生涯の二矢の人生も、深い哀しみが漂う。

そんな作品である。

(J)

「テロルの決算」