カズオ・イシグロ
1954年11月8日長崎生まれ。
1960年、五歳のとき、家族と共に渡英。
以降、日本とイギリスの二つの文化を背景にして育つ。
ケント大学で英文学を、イースト・アングリア大学大学院で創作を学ぶ。
1982年の長編デビュー作『遠い山なみの光』で王立文学協会賞を、1986年に発表した本書でウィットブレッド賞を受賞。1989年には長編第三作の『日の名残り』でブッカー賞を受賞した。
1995年の第四作『充たされざる者』、2000年の第五作『わたしたちが孤児だったころ』の後、五年ぶりに発表した長編『わたしを離さないで』は
世界的ベストセラーとなった。
イシグロ・カズオは本当に不思議な作家である。
すごく乱暴な言い方をすれば、イシグロはいつも「同じ」である。
「同じ」なのに、いつも「ちがう」のである。
イシグロの長編小説は一人称で―つまり「わたし」で―書かれている。
なるほど、この「わたし」はいつも異なる。
「わたし」は未亡人かもしれないし、元執事かもしれないし、ピアニストかもしれないし、私立探偵かもしれないし、介護人かもしれない。
それぞれの作品の舞台は、国もちがえば時代もちがう。
しかしこの異なる相貌の「わたし」が基本的には同じことをしているという印象を読者は受ける。
では何をしているのか?
「語る」ことである。
……
「語る」ということ自体の肌理が目につきはじめる。
そしてそれが私たちに与える、けっして心地よいものではない感触が気になってくるのである。
作家 小野正嗣
本書 あとがき より
イシグロの作品は、途中まで言いたいことがよく分からない。
少なくとも私には分かりにくい。
読み進んで行くとここかもしれないと思う所に行きつく。
ところがそれがまた別の言葉に変わる。
どういうこと?仮面のような言葉?
そして最後に行きつく。
で…?
第二次大戦後の日本、小野益次は今は引退した画家である。
長女・節子は結婚して一郎という名の子どもがいる。
次女・紀子は益次と今も暮らしている。
紀子は、見合いで婚約寸前までいくが破談になる。
益次はこの娘のことが気になる。
早く嫁に行ってほしいと思うが、事はなかなか進まない。
小野益次の画家としての歩みは、「モリさん」こと森山画伯の所に弟子入りした時から始まる。
10人ほどの弟子と共に、先生のすばらしい絵を見て、熱っぽい議論が弟子達に起こり感動を言葉にする。
そして、「モリさん」から大きな影響を受けながらもやがて自分の作風へと至る。
益次は15歳のとき、父親から客間に呼ばれ、腕いっぱいに抱えた絵とスケッチを置く。
絵を描くことが好きだった益次は、父親の言いつけどおりに作品を持ってきたのだった。
父親の言うことにはどんなことでも「間違いありません。」「おっしゃる通りです。」
と答える益次だが、『画家は、不潔で貧乏暮しをして、意志薄弱な貧乏人に堕落させようとする、誘惑でいっぱいの世界に住む。』と言う父親の言葉は、反対に益次の心に野心の日を灯した。
「モリさん」の所に行く前に武田工房で仕事をしていた。
武田工房ではさまざまな注文をうけてそれを絵にする。
欲しいという日本の風景やら物を描いていた。
早く絵にするのが大切で、それが出来ない者は、非難の的にもなった。
そしてこの人生初期の教訓は、師匠の権威を疑ってかかることも大事という教訓だった。
画家としての成功が益次にも訪れて、多少なりとも名声を成す。
益次自身も弟子を取り、それなりに周囲への影響力を持つようになる。
戦後、以前の建物は焼け野原になり、風景も変わる。
人の心も変わり価値観も変化する。
その中にあって、益次の優秀な弟子でもあった黒田の事件は起きる。
益次には、そんなことになるとは思いもしなかった。
取り返しのつかないことでもあった。
「わたし」で語られながらも、語られる「わたし」は自身の分身か。
「影」と「「自分」とはいったいどういう関係なのか。
人生行路のあちこちで、自分の犯した過ちを直視すれば、満足感が得られ自尊心も高まるはずだと、強固に信念の如く犯した過ちを深く恥じる益次だが、
認めたくない過ちは一体どんなことなのか。
「わたし」と「影」はどんなモノだったのか。
(J)