hon20151014三島 由紀夫 (みしま ゆきお)

(1925-1970) 本名 平岡公威。
東京・四谷生まれ。学習院中等科在学中、〈三島由紀夫〉のペンネームで「花ざかりの森」を書き、早熟の才をうたわれる。
東大法科を経て大蔵省に入るが、まもなく退職。
『仮面の告白』によって文壇の地位を確立。
以降『愛の渇き』『金閣寺』『潮騒』『憂国』など、次々と話題作を発表、たえずジャーナリズムの渦中にあった。

山田羽仁男(はにお)は、落ちた新聞の上でゴキブリがじっとしていて、彼が手をのばすと同時に、つやつやしたマホガニー色のゴキブリが、読んでいた新聞の活字の間に紛れ込み、読もうとする活字がみんなゴキブリになってしまった。
『ああ、世の中はこんな仕組みになっているんだな』それが突然わかった。
そしてむしょうに死にたくなってしまった。

彼の職業はコピーライターだった。
独立しても結構やって行けるほど、才能も認められていたが、独立もせずに相当の給料をもらって満足していた。

決めていた通りに、最終電車で睡眠薬を飲んで自殺した羽仁男が目覚めたのは、天国ではなく病院のベッドの上だった。

自殺しそこなった羽仁男の前には、何だかカラッポな、すばらしい自由な世界がひらけた。
今まで永遠につづくと思われた毎日がポツリと切れて、何事も可能になったような気がした。
辞職を出し退職金も沢山くれた。
自分は誰にも気兼ねのない生き方をすることになったと思った。

三流新聞の求人欄に広告を出した。
『命売ります。お好きな目的にお使いください。当方二十七歳男子。秘密は一切守り、決して迷惑はおかけしません』
自室のドアには『ライフ・フォア・セイル 山田羽仁男』と紙を貼った。

あくる日の朝、小柄な、身なりのキチンとした老人が立っていた。
客人であった。
老人は手の切れそうな一万円札を五枚出し、自分の三度目の家内で二十三歳の「岸るり子」を殺してほしいという。
いま彼女はある男性の囲われ者だという。
老人は出来の悪い入れ歯をシューシュー言わせながら、るり子の居るマンションを教え、帰って行った。

そして、羽仁男の前にはいろいろな客が来ることになる。
ひっつめ髪の中年の一向パッとしないオールドミスの女や、吸血鬼の母親に思いっきり喜ばせたくて、羽仁男の血を求める少年や、大使館関係者の依頼などである。

彼は一度死んだ人間だった。
だからこの世に何の責任もなければ、執着もないはずだった。
彼にとって、世界とは、ゴキブリの活字で埋まった新聞紙にすぎなかった。
そのはずだった。
自分で死ねないのならと始めた仕事だったが、なぜだかふいに恐怖の念に襲われる。
死にたくない。
死ぬことに恐怖を覚えた羽仁男は、ある団体から追わるようになってしまう。

純文学の三島由紀夫とはかなりタッチの違う作品である。
退廃的でエロティックともいえる文章に、『エッ!』とか思いながらも、結構面白く読む。

自分自身も45歳の若さで自決した三島由紀夫だが、
解説者のあとがきにもあるように、ひょっとしたら、純文学よりもこの隠れた怪作小説の中に、三島由紀夫の本音に近いものが書かれているのかもしれない。

『ほんと、そうかもしれない。』と、ふと思う。

(J)

「命売ります」