hon20151022沢木 耕太郎  Swaki kotaro

1957(昭和22)年、東京生れ。
横浜国立大卒業。
ほどなくルポライターとして出発し、鮮烈な感性と斬新な文体で注目を集める。
『若き実力者たち『「敗せざる者たち』等を発表した後、’79年『テロルの決算』で大宅壮一ノンフィクション賞、’82年には『一瞬の夏』で新田次郎文学賞を受賞。
常にノンフィクションの新たな可能性を追求し続け、’95(平成7)年、壇一雄未亡人の一人話法に徹した『壇』を発表。
2000年に初めて書き下ろし長編小説『血の味』を刊行。
’02年から’04年にかけて、それまでのノンフィクション分野の仕事の集大成『沢木耕太郎ノンフィクション』が刊行され、’05年にはフィクション/ノンフィクションの垣根を越えたとも言うべき
登山の極限状態を描いた『凍』を発表、大きな話題を呼んだ。

2005年、山野井恭史(やまのいやすし)は、ギャチュンカンという名の山を、妻の妙子と二人で登った。

ギャチュンカンは、世界最高峰のエヴェレストと、第六位の高さを持つチョー・オユーとの間に位置している。
世界には八千メートルを超える山が14座あるらしい。
しかしギャチャンカンの高さは七九五二メートルである。
八千メートルをわずか四十八メートル足りない十五番目の山だった。
逆に言えば、難しさは八千メートルの山に登るのと同じか、それ以上のだったが、登頂しても八千メートル峰を登ったという「勲章」を得ることはできない。
クライマーの中で、八千峰を登ることを目標としている人にとっては、まったく意味のない山だった。

山野井は、中学生になる頃には、叔父や友人と尾根歩きをするだけではなく、一人で岩登りをしていた。
登山クラブでロック・クライミングの技術を学び、新聞配達や成田空港の内装工事のアルバイトなどで金を貯め、高校を卒業するとすぐにアメリカに渡る。
クライミング・バムと呼ばれる若者たちの集まりは、山野井のようにアルバイトのような仕事をしてはお金を貯め、お金の続くかぎりクライミングをして暮らす生き方を選んだ者たちだった。

妻の妙子は、高校生の時に体を動かすという理由で入ったバスケット部で体を鍛えた。
別の高校に通う山岳部の友人に誘われて、上高地や中央アルプスに登り、大好きな自然と自分のペースで歩ける山行が気に入り、その後山のサークルに入り、大学でも山岳部に入る。
卒業後も世界の山を登るようになり女性ばなれした体力を作る。

妙子は山でかかった凍傷のために、手の指や足の指の一部がない。
それでも妙子は山に登る。
体が不自由だと言うことを感じさせない彼女の登りに、山野井も絶大な信頼を置く。

二人とも、目立つことを好まず、生活を切り詰めて山に登った。
資金援助を受けずに、自分たちのスタイルで自分たちの登りたい山に登るためでもあった。

1994年、山野井と妙子は八二〇一メートルのチョー・オユーに挑戦し、二人の登山人生におけるハイライトともいうべきものになった。
山野井は、8千メートル峰の自分のスタイルであるアルパイン・スタイルのソロで登り、世界で四人目のクライマーになり、妙子は、八千メートル峰のバリエーション・ルートをアルバイン・スタイルで女性だけのペアで登った、世界で最初のクライマーになった。

その二人が望んだ山がギャッチャンカンだった。
北壁からのルートを探すが難しいと判断し、北東壁のルートをとる。

荷物はどれだけ切りつめても50キロ位になる。
乾燥五目飯・乾燥焼きそば・ビスケット・コーヒー・ココアなど、食べ物の重量はわずか八五〇グラムだ。
妙子は七千メートルを超えると、ほとんど食べ物を受け付けなくなる。

目指す山頂は、ほぼ直角に見える氷の壁だ。
普段より体調の悪い妙子は、技術で様々な困難を乗り切ることになる。
山野井も、普段なら軽々と乗り越えられるところを、体調不良で苦労することになる。

死と隣り合わせの山・ギャチャンカンで、二人は今までにない苦戦を強いられることになる。
『好きだからやる』『自分の生き方をする』

言うことは簡単だが現実は厳しい。
ましてや、大自然が相手の山で、技術が不足しても判断ミスしても命はない。
山野井と妙子は、このギャチャンカンの登頂で、雪崩・体調不良など、ぎりぎりの状態・絶望の中の壮絶な闘いをしいられ、命の危険と隣り合わせの状態となりながらも、目的を果たす。
周囲は、遭難で生還は難しいだろうと判断する状況の中、二人は、お互いを信じて支え合う。
そして奇跡とも思える帰還を果たす。

その時負った凍傷で、体の一部を切断することになった山野井や妙子は、そのハンディを背負ったまま、ギャチャンカンから五年後の二〇〇七年に、
グリーンランドで標高差一三〇〇メートルの岸壁の登頂に成功する。

読みながら、物凄い迫力に圧倒される。
ストイックなその生き様に感動を覚えながら、筆者・沢木耕太郎の文章に、思わず唸ってしまった。
「世界で最も才能のある女性クライマー」と書かれたりしたが、日本ではまったく知られてこなかった。

(J)

「凍」