hon20151104フェルディナント・フォン・シーラッハ
酒寄 進一 訳

フェルディナント・フォン・シーラッハ  Ferdinand von Schirach

1964年ドイツ、ミュンヘン生まれ。
ナチ党全国青少年最高指導者パルドゥール・ファン・シーラッハの孫。
1994年からベルリンで刑事事件弁護士として活躍する。
デビュー作である『犯罪』が本国でクライスト賞、日本で2012年本屋大賞「翻訳小説部門」第1位を受賞した。
2010年に『犯罪』を、2011年に初長編となる『コリーニ事件』、2013年に長編第二作『禁忌』を刊行。

一生愛しつづけると誓った妻を殺めた老医師。
兄を救うために法廷中を騙そうとする犯罪一家の末っ子。
エチオピアの寒村を豊かにした、心やさしき銀行強盗。
世界の不条理に翻弄される犯罪者たち。

本篇に書かれた小説は全部で11編だ。
ミステリーでありながら、ミステリーでもない。
そんな世界がこの本の中にある。

正当防衛 Notwehr

レンツベルガーとベックはホームをぶらついていた。
スキンヘッド、迷彩ズボン、編み上げ靴、尊大な身振り。

ベックは暴力行為で11回有罪になっていた。
はじめて傷害事件を起こしたのは十四歳のときで、どんどんエスカレートし、十五歳で少年刑務所に入所した。
レンツベルガーの前科はわずか四回だったが、新品の金属バットを持っていた。
金属バットでゴミ箱をたたき、年配の女性を笑いながらちょっかいを出した。

駅にはほとんど人影はなかった。
次のハンブルグ行きの特急列車が到着するのは四十八分後だ。
ベンチに座った二人は退屈してた。
飲み終わったビールビンを投げ出し線路に捨てた。
ビールビンは砕け散った。

二人がその男を見つけたのはそのあとだった。
男はベンチに座っていた。
会社の経理担当者か公務員だろう、とふたりはにらんだ。

ベックは男の隣りにどかっとすわり込み、男の耳元でげっぷをした。
アルコールと消化しない食べ物のにおいがした。
「おい、おやじ、女と遊んだかい?」「おい、糞野郎、おまえに話してるんだよ。」

男はベックに目のくれず、じっとすわったまま視線を落とした。
ベックとレンツベルガーは、それを挑発と受け取った。
ベックは人差し指を男の胸に突き立てた。

ベックは男の顔をはたいた。
メガネがずれたが男は直そうとしなかった。

ベックはブーツに仕込んでいたナイフを抜いた。
大ぶりのサバイバルナイフだ。
そのナイフを振り回した。
男はそれでもまっすぐ前を見ていた。
ベックはナイフで男の手を刺した。
傷は深くない。
手の甲に血がにじんだ。

レンツベルガーは面白くなってきたぞと思い、興奮して金属バットでベンチをたたいた。
「どうだ、糞野郎、気分はよくなったか?」
男はいまだに反応しなかった。
ベックは腹が立った。
ナイフを二度振り、三度目に男の胸に当たった。
シャツが裂け男の皮膚に二十センチほどの傷ができた。

向かい側のホームには後の証言することになる医者がいた。
出来事を録画したホームのビデオカメラは、モノクロの連続静止画像で、その詳細は捉え切れなかった。

ベックはナイフを振り上げ、レンツベルガーが雄叫びをあげた。
男はベックの右手をつかんだかと思うと、肘を一突きした。
ナイフはベックの三番目と四番目のあばら骨を目指した。
ベックは自分の胸にナイフを突き立てた。
しかもナイフがベックの皮膚に突き刺さった瞬間、男はベックの掌を激しくたたいた。
一連の動作は踊っているように見えた。
刀はベックの体内に深く消え、四十秒ほど息があった。

男は向き直って、レンツベルガーをみて、金属バットで殴りかかってくる彼の首を素早く一突きした。
ビデオカメラでも捉えられないほどの素早さだった。
この一点に集中している神経終末がそれを血圧の急上昇と受け取り、大脳に心拍数を減少させる信号を送った。
レンツベルガーはホームに転がり、線路に落ちた。
頸動脈洞はすでに破裂していた。
レンツベルガーは死んだ。

男はベンチに座りメガネをかけ直し、脚を組むとタバコに火を付け逮捕されるのを待った。

明らかに正当防衛である。
証人の供述もそれを示していた。
この男の弁護士になった私は、ドイツ語、英語で話しかけ、最後には片言のフランス語も使ったが、男はひと言も口をきかなかった。

刑事警察署でも男はしゃべらなかった。
取り調べにあたっての注意事項を十六の言語で伝えた。
しかし何の反応もなかった。

この件には奇妙なところがあった。
過剰防衛ではないかとの意見もあった。

しかし、男は拘留を解かれそのまま釈放された。
私は男の代わりに受領書を書いた。
私の車で三十五時間前にふたりの男を殺した駅へ送った。
男は無のまま車に乗り、無言のまま車を降り、人混みに紛れて消えた。
それっきり彼には会っていない。

どう考えても正当防衛だ。
だけど何かが変?この男は何者?読んだ後も疑問が残る。
何かが変???

(J)

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