「人生がうまくいく哲学的思考術」  白取 晴彦

 

 

 

 

著者紹介
青森市生まれ。
ベルリン自由大学で哲学・宗教・文学を学ぶ。
既成概念にとらわれないで、哲学と宗教に関する解説書の明快さには定評がある。
主な著書に『超訳ニーチェの言葉』『頭がよくなる思考術』『独学術』『この一冊で「聖書」がわかる』などがある。

 

 

第2部 悩むな、考えろ

14 言葉では説明できない世界があることを知る

この世は殺伐としている。世間で幅をきかせているのは物量と金銭だけのように見える。そして、多くの人は物と金のためにあくせくと働いている。
誰も木々を渡る風を見ない。星の瞬きに心をとらわれない。多くの人は下を向き、紙幣を数えたり、電子機器を操作したりしている。
彼らは神の存在について考えないどころか、自分の眼に見えないものはすべてフィクションと考え、リアルは手元にあるものだけだと思い込んでいる。
では、本当にこの世はただ、物が充満するだけの世界なのだろうか。眼に見えないものというのは本当に人間の想像が産んだフィクションにすぎないのだろうか。

すべてのことを言葉で説明できるわけではない

哲学者としてヴィトゲンシュタインは決定的に有名な一文を放った。彼の著書『論理哲学論考』の最後に置かれた次の一文である。
Wovon man nichi sprechen kann,daru ber muB man schweigen.
歯切れのいいドイツ語原文はだいたい次のように訳されている。
「語りえないことについて人は沈黙する」(木村洋平訳)
「語りえないものについては、沈黙しなければならない」(星川啓慈訳)
ここでいう「語りえない」とは、言葉で言い表せない、精確に表現も説明もできない、ということだ。
では、そういうものとは何か。たくさんある。たとえば、神。愛。崇高なもの。美。善悪。正義。あるいはまた、微妙な旨さといったものも含まれる。これらはみな、人の言葉の限界を超えているものだ。
したがってこれらのことについてあますところなく言語で説明することができない。したがって、定義もできない。たとえば、クラシック音楽の短い一曲だけでも言葉で説明しつくせないのと同じだ。
しかし、それらを言葉で完全に説明しつくそうとしてきたのが、哲学だった。

自分の心も神秘そのもの

なぜ、言葉で説明できないかというと、言語表現には限界があるからだ。しかも、この世界に対峙するには、言葉の表現領域はとても小さいからである。言葉はせいぜい事実的なことくらいしか言い表せないのだ。
だからといって、超越的なもの、神秘的なものがこの世界には存在しないということにはならない。
ヴィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』の6・522にこう書いている。
「言い表せないものはもちろん存在する。それは、それ自身がみずからを示すのだ。それは、神秘である」(私訳)
ここに言われる「神秘」はなにも宗教的なものだけに限らない。時空間も神秘だし、各言語の文法も神秘だし、生命はもちろん、自分の心も神秘そのものだ。

そしておそらく、わたしたちの生活は、言葉で説明できる事実だけで染まっているわけではない。むしろ、言葉ではとうてい半分も説明できないもの、感じとることしかできないもの、に満ちている。
だからこそ、わたしたちは悩み、即物的ではない事柄に喜びを覚えるのだ。まだ起きていないことにわくわくと胸をはずませ、すでにないことに悔い、今に迷い、体にまとうものをファッションとして認識し、音の重なりや連続を音楽として聴くことができるのだ。

であれば、哲学はもはや知性だけが請け負う事柄ではなくなるはずだ。知性などよりも、より多くの感性が新しく哲学をになう必要があるだろう。
事実のみを、即物的な事柄のみを考えるならば、科学があるのだから。哲学はそうではなく、本当に人間的な事柄、つまり言葉を超える事柄について考えてナンボだろう。つまり、知性による学問ではなく、感性と洞察を根本に置いた学問らしきもの、として。

 

こう考えてみよう
この世界には非常に大切だが
言葉では説明できないことがたくさんある。