「人生がうまくいく哲学的思考術」  白取 晴彦

 

 

 

 

著者紹介
青森市生まれ。
ベルリン自由大学で哲学・宗教・文学を学ぶ。
既成概念にとらわれないで、哲学と宗教に関する解説書の明快さには定評がある。
主な著書に『超訳ニーチェの言葉』『頭がよくなる思考術』『独学術』『この一冊で「聖書」がわかる』などがある。

 

 

第2部 悩むな、考えろ

10 考えるだけでなく、言葉や行動で表現する

わたしたちはふだんからいろいろと考えている。たくさん考え、悩み、また考え直し、それでもなお解決方法が見いだせないときがある。
「下手な考え、休むに似たり」という諺がある。下手に考えるのならば、いっそ考えずに行動したほうがいいのだろうか。しかし、行動するにしても、今度はどう行動していいのかがわからない。そこでまた考えてしまう。
あるいは、思考法がまちがっているのだろうか。ちゃんと考えるために論理学の本でも読んだほうがいいのだろうか。けれども、論理学の本の中身はほぼ数学だ。
求めているのはそういうものではない。求めているのは、自分がどういうふうに考えれば、現実生活、あるいは自分の仕事に有効かということだ。

わたしたちは本当に考えているのか?

かつてパスカルは『パンセ』の中で「人間とは考える葦である』と幾度も書いた。人間は植物の葦ではないから、これは象徴的表現だ。十七世紀の哲学者パスカルにとって、葦は弱々しいものの象徴だった。
「人間は一茎の葦にすぎない。自然のうちでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。かれをおしつぶすには、全宇宙が武装するにはおよばない。ひと吹きの蒸気、ひとしずくの水が、かれを殺すのにじゅうぶんである」(由木康訳 以下同)
この文章に続いてパスカルは、「たとえ宇宙がこの一茎の葦を押しつぶしたとしても、人間は高貴だ。なぜならば、自分が死ぬことを知っているからだ。宇宙はそのことすら知らない」と述べ、人間のあらゆる尊厳は思考することにある、としている。
たぶん、パスカルにあっては思考と表現は表裏一体のものであったろう。というのも、パスカルは書きながら考えていたからだ。
だから、「人間のあらゆる尊厳は思考することにある」というパスカルの断定を現代人は誤解して受け取る可能性がある。つまり、自分だってふだんからいろいろと考えている、というふうに。しかし、わたしたちは本当にふだんから考えているのだろうか。

考えは物理的な形をともなう

わたしたちは自分がさまざまな事柄について考えているということを自覚している。では、その内容といえばどういうものだろうか。
ほとんどは、何かの刺激を受けての想像や記憶の呼び起こし、それにともなう連想や感情の動き、イメージの連鎖、不安を含んだ予想、主観的な妄想、金銭や時間などの単純な計算、損得利害のおおざっぱな見通し、視界に入った気になるものの判断、これから会う相手に言うべきことの主意のくり返し、聞こえてくる音の意味、等々だ。
何かのテーマについてのまとまった思考であることはほぼない。なぜならば、あたかも書物の数頁ほどの脈絡のある思考を頭脳だけで続けることはかなり困難だからだ。
そういう思考が必要な場合、たとえばこれから開かれる会議や折衝のために考えておかなければならないときは、わたしたちはメモや資料を参考にしながら、考え、まとまった見解を文章で記述しておくという作業をするものだ。

わたしたちのこういう自然な経験からもわかるように、考えることを実現するためには、どうしても物理的な動きが必要となるのだ。あらかじめまとまった思考が頭の中にあって、その思考を言葉という道具を使って表現するわけではない。
考えというものが現実に現れるときは、必ずなんらかの物理的な形をともなわなければならない。頭の中にあるものはまだ考えという輪郭のあるものではなく、不定型のカオスのまとまりのようなものにすぎない。それが言葉で記されるときに、ようやく輪郭と意味が生まれる。
このことを実感としてよく知っているのは、書くことを主な仕事にしているような人々だ。彼らはもちろんふつうに考えもするが、記録ができない状態にある場合でも仕事として考えるときは頭の中で文章を書いて考えている。
そして書斎に戻ったときには、文字を記しつつ改めて新しく、しかし今度は本当に思考というものを行なっていくのだ。だから、散歩の間に考え記憶していた文章そのままを文字に起こす、ということでは決してないのである。
物書きのこのような思考と記述の作業は一般の人々となんら関係がないように思われるかもしれないが、実はわたしたちのふだんの考えがいかに曖昧で頼りないもので、現実に対して実効性のないものになっているのかを教えてくれている。

自分自身が何を考えているのかも、表現しない限りわからない

現実の思考には物理的な言葉がどうしても欠かせないということを指摘した哲学者は二十世紀半ばに活躍したフランスの哲学者メルロ=ポンティだった。彼は、人は言葉を現実に語ることによってのみ、その人の考えや主張が初めてこの世に存在すると明らかにした。
つまり、頭の中でいくらあれやこれやと考えていたとしても、その考えはまだ考えとしてどこにも存在しないということだ。言葉、あるいは言葉に代わるもの、つまり、態度や表情や沈黙によって物理的に表現されて初めて、自分にも、そして相手にも、自分の考えが現れるのである。

このことは、他人を観察しているとよくわかる。他人が何を考え、何を思っていてどうしたいのか、わたしたちはその他人の発したり書いたりする言葉、態度、顔つき、行動という表現によってしかわからないのだから。
同じように、わたしたちは自分自身が本当に何を考えているのかも、自分の表現によってしかわかりはしない。つまり、自分が書いたり発したりする言葉、行動が自分の考えを如実にしていることを知らなければならないのだ。
ちなみに、ロダンのあの有名な彫刻「考える人」は今まで述べたことから推量すれば、実は何も考えていない。「考える人」は、考えている人の像ではなく、思いあぐねている人、もしくはくよくよと悩んでいる人の像である。

こう考えてみよう
言葉や行動で表現しない限り、
考えは自分にも他人にもわからない。