「人生がうまくいく哲学的思考術」  白取 晴彦

 

 

 

 

著者紹介
青森市生まれ。
ベルリン自由大学で哲学・宗教・文学を学ぶ。
既成概念にとらわれないで、哲学と宗教に関する解説書の明快さには定評がある。
主な著書に『超訳ニーチェの言葉』『頭がよくなる思考術』『独学術』『この一冊で「聖書」がわかる』などがある。

 

 

第2部 悩むな、考えろ

12 実体のない「心」に振り回されない

わたしたちはみな心を持っていると思っている。感情や思いが自分の心の働きだと思っている。それを当然のこととして、わたしたちは人と話し、暮らしている。
そして、自分や相手の心を重く見る。それを同様に、相手の心持ちを気遣うのが一種の暗黙の礼儀となっている。
それほど心に重きをおくせいか、肉体は物理的な死を迎えても心は残ると思う人も少なくない。肉体を離れた心が魂とか霊だと漠然と考える人もいる。
しかし、心とは何か、わたしたちはつきつめて考えることがない。心について考えれば何かが解決するだろうか。それとも何も解決しないまま、いつもどおりに自分や相手の心についていろいろと悩み続けるのだろうか。

心は実際に存在しない?

現在ではネパールにあたる地に生まれたゴータマ・シッダールタという青年が苦行の旅に出てやがて悟った者ブッタとして仏教を唱え始めるより約八百年前に、インドに移動してきたアーリア人が始めたバラモン教は霊魂の存在を信じていた。人が死ねば、その火葬の煙とともに霊魂は体を離れて昇っていくと彼らは考えていた。
バラモン教のこの考え方を否定したのがブッタであった。ブッタは瞑想と体験を思索によって、霊や心というものは実体ではないとした。

どうして心が実体ではないのか、その論理が仏教経典の『二入四行論』に記されている。その主旨を現代語にするとだいたい次のようになる。
「心というものが最初から存在しているのではない。心というものはいつも、対象物によって生じる。対象物が心というものを引き起すのだ。しかし、この対象物とされるものも、心によって対象物とされるにすぎない。どちらも、相手がなければ存在しない。心も物も、それ自体では存在することができない」
このことが体感されたとき、人は初めて自由になれる、自分の心に巣くう多くの欲と衝動からようやく自由になれる、と仏教では説いている。

そこから時代を二千五百年下って、現象学を専門とした哲学者フッサールも似たようなことを述べている。
「意識とは、つねに何ものかについての意識である」
最初から意識というものがあるのではなく、対象に向かうときだけ意識が存在する、という考え方だ。
また、紀元前四世紀のギリシャの哲学者アリストテレスは『魂について』で、「理性は、何かを考える以前においては実存ではない」と言っている。
ちなみに、心と意識と理性はちがうのではないだろうかと思われるかもしれないが、わたしたちは実際には宗教的な意味で言う場合を除いて、心、意識、魂、霊、理性、感情をきっちりと区別することはできないでいる。それどころか、しばしば同じ意味で扱っている。

ところで、心についてのこれらの考え方にじっと耳を傾けていると、あたかも暗示にかかったかのように、心というものは実際には存在せず、ただ対象への反応だけがあり、それを便宜的に心と呼んできただけではないだろうかと思われてくる。
確かに、わたしたちの心は主に眼前の切迫したものだけに敏感に反応している。たとえば、いかに失恋が痛手であったにしろ、三〇度の傾斜のスロープをスキーで滑降するときには、あるいは銀行で預金残高を確認するときには、別れた彼女の面影で心が絞られるようにはならないのだから。

苦痛や悩みから脱する効果的な方法

仏教の考え方に戻れば、心はもともと存在などしないというのが基本の思想だ。
だが、この考え方と論理はある目的のためにある。その目的とは、自分の中でたえず揺れ動く心に振り回されて行動したり、苦しんだりしないためである。
仏教では、心の「無」も含めていっさいが互いによりかかるために存在するのだから、本来はすべてが「空」であるという認識を悟りとしている。

この悟りは、ひとえに人生の苦痛を、あるいは自分の心の乱れや欲望の強さに悩んでいる人の苦しみを取り除くことに焦点をあてている。
だから、人の心とは何かという純粋な問いに的確に答えるものではない。考え方を変え、認識をすっかり変えることによって、心が生む苦しみから脱する方法を教えているだけである。
しかし、少なくとも効用があるわけだから、心とは何かというという問いの周りをいつまでもめぐっているだけの抽象的な考察よりも実用的だといえる。

それを現代社会に住むわたしたちも簡単に応用できる。たとえば、『座禅議』に記されている方法の一つを使えば、自己コントロールがしやすくなる。
その方法の一つとは、今の自分が何かを欲しがっているのか、何かをしたがっているのか、何に腹を立てているのか、を自分ではっきりと把握することである。
してはならない行為をしたいと思ったとき、あるいはエゴイスティックな欲望を満たしたいという衝動が生まれたとき、その自分をもう一人の自分が肩口から見て、「おまえは何々したがっているのか」と把握するのだ。

欲望や衝動を覚えている自分とは決して一体にはならない冷静な認識を持った自分を肩の上に置くわけである。こうすることによって、欲望や衝動の強さがかなり減ぜられ、やがては消えてしまうようになる。
わたしたちは他人を見ては、あんなつまらぬことをして何がおもしろいのか、とひそかに批判するが、それを自分に対しても行なうわけだ。もちろん、自分の思いや感情に対しても同じように肩口から見て把握する。
この方法は自分の行ないと考え方をかなり理性的にする力がある。そして、自分の人格と人生を良い方向へと転換させる強い効用を持っている。

こう考えてみよう
自分が何をしたがっているか把握すれば、
欲望や衝動から解放される。