シュリーマン Heinnch Schliemann  (1822-1890)
ドイツの考古学者。
若い頃ロシアに移住し、インド藍を商って富を得る。
世界漫遊の後、少年時代にいだいたトロイア戦争は実際にあったことだという信念を裏づけるべく古代史の研究をはじめる。
1870年から’73年にかけて、アナトリアのヒサルリクの丘を発掘し、そこがトロイアの遺跡にほかならないことを実証して、全世界に衝撃をあたえた。
その後、ミュケーナイ、ティーリュンスなどの発掘を続行。
その自伝『古代への情熱』は広く読みつがれている。

シュリーマンは、1822年1月6日、メクレンブルグ=シュヴェリーンにある小さな町、イノブコーで生まれた。
父エルンスト・シュリーマンは、この町のプロテスタントの牧師だったが、1823年に同じ大公国内のアンケルスハーゲン村の教区へと転任する。
この村で8年過ごすが、すべての神秘的なもの、不思議なものを好む傾向は、この村に伝わる不思議の数々に触れて、真の情熱となっていったという。
それは、「幽霊が出る」と言う噂話だったり、庭のうしろに「銀小皿」と呼ばれる小さな池があって、この池から、真夜中になると、銀の小皿を持った処女の幽霊が現れることだったり、老いた盗賊騎士が愛児を金のゆりかごに入れて、丘の埋葬したということだったりした。
また、地主の庭園にある古い円塔の廃墟のかたわらには、途方もない財宝が隠されているという話もあった。
彼は、父親がお金に困ってこぼすのを聞くたびに、どうしてこの銀の皿とか金のゆりかごとかを掘り出してお金持ちになろうとしないのかと、不思議そうに尋ねたものだった。

父親は、文献学者でも考古学者でもなかったが、古代の歴史に熱烈な興味をいだいていた。
父親は、ヘルクラネムス(ヴェスヴィオ火山の西の麓にあった町。紀元79年の噴火でポンペイと共に埋没)とポンペイの悲劇的な壊滅の話をしばしば夢中になって物語ってくれたものだが、その発掘現場を訪れるお金やひまのある人をこのうえなくしあわせな人間と思っているらしかった。
また、ホメーロスの歌う英雄たちの功業やトロイア戦争における数々のできごとについても、感嘆をまじえながら語ってくれた。
1829年のクリスマスに『子どものための世界史』をプレゼントにもらい、その本の挿絵で、炎上するトロイアの都、巨大な城壁、スカイアイ門、英雄アイエイアースの疾走するさまをみて、シュリーマンは、父に「お父さんの話はまちがっているよ!イェラーはトロイアをきっと見たんだ。」と言う。
しかし父は、「これは想像で描いた絵にすぎないんだよ。」と答え、結局二人は、いつかはトロイアを発掘することになるんだということで合意に達したという。

11歳でギュムナージウム(9年生の文科系中学・高校)に入るが、ちょうどその頃非常に大きな不運に見舞われた。
父の財産ではギュムナージウムから大学へと何年も続く勉学生活を支えきれないという恐れがあり、ギュムナージウムをやめ、町の実業学校へうつり、14歳でそこを卒業し小さな雑貨屋に見習いとして働くようになる。
店は小さく、ニシン、バター、ジャガイモ、焼酎、ミルク、塩、コーヒー、砂糖、油、ロウソクなどを売っていたが、朝5時から夜11時まで働き、勉学に向ける時間の余裕はまったくなかった。
ところが突然、まるで奇跡のように解放される。
重すぎる樽をもちあげたために、胸を痛めて血を吐き、仕事ができなくなった。
ハンブルグまで出て、仕事をみつけるが、喀血のためにお払い箱になる。
日々の糧を得るために船でのしごとをみつけるが、乗り込んだ船が激しい嵐に会い、難破する。

難破後、ドイツに帰ることを嫌がったシュリーマンは、アムステルダムへ向かう。
わずかのお金が底をついた時、仮病を使って病院に収容された。
そして、親切な船舶仲買人I.F.ヴェント氏に手紙を出したところ、天の助けか、彼の数人の友人からの同情で見舞金をもらい、働き口をみつけることができた。
仕事は、手形に印を押してもらって、それを町で現金化したり、郵便局に持って行ったりすることだった。
勉学に向ける時間的余裕が手に入り、語学を学び始める。
英語からはじめる。
フランス語、オランダ語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、ロシア語などだった。
1846年1月、商会主の代理人としてモスクワに行き、その後、独立する。

その後、カリフォルニアの弟を訪ねるが、すでに死んでおり、アメリカに1850年まで滞在し、アメリカ国籍を取得する。
また、藍の卸業でモスクワに支店を出すなど着々と仕事は進んで行くことになる。
その後、ギリシア語、古代ギリシア語、ラテン語等も覚えるようになる。

1858年、十分に資産ができたと思えたので、事業からすっかり手を引き、まずは、スウェーデン、デンマーク、ドイツ、イタリア、エジプトへ旅行し、1863年、チェニス、エジプト、インド。
セイロン島、マドラス、カルカッタ、ベナレス、アグラ、ラクナウ、デリー、ヒマラヤ山脈、シンガポール、ジャワ島、インドネシア、香港、広東、厦門、福州、上海、天津、北京、横浜、江戸などをまわった。

そして、1868年摂氏52度の焼けつくような暑さの中、『オデュッセイア」を出して、眼前の四方に開ける展望に感嘆したり、眺めを楽しむ。
翌日から、4人の労務者と共に、アテナイ山から、小さい頃の願いをかなえるために、また、父との約束をはたすために、発掘をはじめることになる。

自分の財産で、それまで空想上のものだとされていた事跡を発掘したシュリーマンは十数か国語が話せたという。
そして、成功のカギは語学にあったともいう。
独特の勉強法で、早いものは3か月ほどで読み書きするようになったようだ。
ホメーロスの事跡を事実とし、次々と古代史の発掘を成し遂げ、古代考古学でも成功をおさめた、波乱の人生の生涯の記録である。
学歴もなく何もない、極貧の青年の語る人生は、興味深いものがあった。

(J)

 

「古代への情熱 -シュリーマン自伝ー」