藤沢 周(ふじさわ しゅう)
1959年、新潟県生まれ。
法政大学文学部卒業。
書評紙「図書新聞」の編集長を経て、93年「ゾーンを左に曲がれ」で作家デビュー。
98年「ブエノスアイレス午前零時」で第119回芥川賞受賞。
著書に『死亡遊戯』『刺青』『ソロ』『境界』『礫』『オレンジ・アンド・タール』『愛人』などがある。

事情聴取

それまでの記憶はまったく欠落していたといってもいい。
どうやって自分がその店に入ったのか、覚えてないんだ。
学生時代の友人が勤め先の丸紅のビルから飛び降りて死んで、その葬式でやたら酒を呑んで「懐かしいな、おい、懐かしいな」と不謹慎にも仲間と笑いまくっていたのは覚えている。
それからだ。
どうやってその席から抜けて、どう歩き、どう電車に乗り、その大元という店に入ったのかさっぱり分からない。
そこがどこかさえも分からなかった。
それで、私は日本酒を頼んで、七味唐辛子の瓶を見ているうちに、自分に戻ってきたというわけだ。
酔っ払いにはよくある話じゃないか。
本文 抜粋

私は記憶がとびとびだった。
なぜ自分がここにいて、ここが何処かさえもわからないことがあった。
気がつくと、財布にあるはずの10万円が、ただの新聞紙になっていて、着ていた服は、硬い作業着とか軍服のようにガサガサになっている。
酒が飲みたい。
酒を買うお金を探して、ポケットやコートを探す。
きっと誰かにやられたんだ。
酒を呑むとすべてが良くなった。
そして酒を呑むと記憶が無くなった。

捜索願い板に自分らしい特徴が書かれ、写真のコピーまで貼ってある。
総務部の部長補佐をやっていた頃の私の顔は、白黒に潰れてますます人相が悪くなっている。
私はもう戻れないと思った。
ほんの4,5日つもりだった。
気がついたら6年も経っていた。

公園で泥酔している若い女を強姦し、バッグの中のお金を取った。
風呂と着替えと酒が欲しくて、入った家のお婆さんを殺した。
まずいことになったが、外見を変えて、手っ取り早く、違う人になったつもりになった。
バイクで、あっちこっち行った。
スピードを出し過ぎて、警察とカーチェイスになった。
こんな馬鹿なことが現実に起こっていいのかと本気で思った。
あとのことは、よく覚えていない。

アルコールで身を持ち崩した男の話だ。
結婚し、子供もいて、それなりの社会的地位もあった。
なぜ!どうして!と言う思いは、当人が一番抱くものかもしれない。

アルコール症(alcoholism)
「アルコール症」という用語は、依存による嗜癖的飲酒そのものから、その結果生じる身体的・社会的な影響に及ぶ広い概念を含んでいる。
本項ではアルコール症の中心的な問題となるアルコール依存(alcohol dependence)について述べる。
アルコールには、不安や緊張を弱めてリラックスさせる、気分を高揚させる、脱抑制などの作用があり、入手が容易なために精神依存が生じやすい。アルコール依存症者の性格特徴は気分の振幅が大きくて攻撃的である反面、小心・依存的で劣等感を抱きやすく欲求不満に対する耐性が低く周囲に影響されやすい。そのため酩酊して抑制が取れたときには攻撃的となり不満を発散する。依存の発生にはこのような性格要因に加え、家庭環境、社会文化的要因などの関与が大きい。精神症状としては、振戦せん妄(急に飲酒を中止したときに起こりやすく、不眠、頭痛、せん妄状態を呈し、小人や虫などの幻視を伴うことが多い、コルサコフ精神病、(最近の記憶障害、見当識障害、作話症などが持続する)、アルコール性妄想状態(男性患者が妻に対して嫉妬妄想を持つことが多い)、アルコール幻覚症などがある。治療は、個人精神療法、内観療法、行動療法などに加え、禁酒状態を維持してゆくための社会的な援助やリハビリテーションが重要であり、患者どうしの相互援助組織であるAA(Alcoholics Anonymous)と日本で組織された断酒会が大きな役割を果たしている。
カウンセリング辞典 ミネルヴァ書房 より引用

(J)

 

 

「陽炎の。」