井坂幸太郎 Isaka Kotaro
1971年千葉生まれ。
2000年『オーディボンの祈り』で、第5回新潮ミステリー娯楽部賞を受賞しデビュー。
04年『アヒルと鴨のコインロッカー』で第25回吉川英治文学新人賞、「死神の精度」で第57回日本推理作家協会賞短編部門を受賞。
08年『ゴールデンスランバー』で第5回本屋大賞と第21回山本周五郎賞を受賞する。
他の著書に『火星に住むつもりかい?』『AXアックス』などがある。

本の紹介欄に、『明日がきっと楽しくなる、魔法のような連作短編集』と紹介されている。
タイトルは、「アイネクライネ」「ライトヘビー」「ドクメンタ」「ルックスライク」「メイクアップ」「ナハトムジーク」と続き、登場人物や時間が物語の展開に添って、次々と変わりながらも、最後まで読むと“ナルホド”と頷けるストーリー展開になっている。

アイネクライネ
27歳の佐藤は、街頭でマーケットリサーチなどという今は時代遅れに聞こえるような、そんな形で、アンケート調査をしていた。
普段はインターネットとかを使うのだが、同僚というか先輩の優秀なシステム管理者の藤間さんが、妻に逃げられたことで動揺し、冷静な彼が、社内で怒りをぶちまけて、その拍子に佐藤のコーヒーが零れて、資料が駄目になったことから始まった。
心労がたたって、藤間さんは有給休暇を取って休んでいる。
課長は、嫌味のように残業代も出ない街頭アンケートを、佐藤に命じたのだ。

アンケートをとる後ろで、わっと大きな声がする。
振り返ると、駅の構内に人だかりができていた。
20人ほどの会社員たちが、大きめの画面に向かって立っていた。
今晩、日本人ボクサーが、ヘビー級のタイトルマッチをやるのだ。
中継を眺める人だかりは駅の中にある。
外にいる佐藤には画面は一部しか見えない。
20分に10人ほど声をかけたが、一人も相手にされない。
断り続けられて気が滅入ってきていたが、増々落ち込んでいく。

そのとき、正面から小柄とも大柄ともいえない体格の彼女が俯き気味で歩いている。
数メートル前までやって来たところで声をかけた。
「お忙しいところ、すいません。」「はい?」
アンケートの趣旨と会社の説明を素早く話す。
逃げないでください、逃げないでください、と内心で必死に唱えた。
彼女は「いいですよ」と頭をあげてうなずいた。
手首のあたりの“シャンプー”と書かれていた彼女は、しっかりとした字で、フリーターと書いていた。

この彼女がアンケートに答えてくれてそれ以降、
今までが嘘のようにはかどり始める。

ラウンドの終わる直前、チャンピオンがリングに倒れた。
挑戦者のストレートが、顎にあたったのだ。
駅構内では歓声が沸き、それはほとんどうねりをつくるどよめきだった。
視線の先の彼女も一瞬、右腕を上げかけてたが、その拳を気づき、照れるような顔になるとそのまま左方向に消えた。
佐藤は、もう一度彼女に会いたいと思った。

さりげない日常、さりげない出会い、さりげなく描かれた文章が、さりげなく心に残る。
出会いってあるようでなくて、無いようでありそうだ。
恋愛とも友愛ともいえるような、そんな温かい人の心模様に、思わず笑みが浮かんだ。

(J)

「アイネクライネナハトムジーク」