加藤 典洋 かとう のりひろ
1948年、山形県生まれ。
東京大学文学部卒。
国立国会図書館勤務を経て、現在、早稲田大学国際教養学部教授。
文芸評論家。
『言語表現法講義』で第10回新潮学芸賞、『敗戦後論』で第9回伊藤政文学賞、『小説の未来』『テクストから遠く離れて』で第7回桑原武夫学芸賞を受賞。
主な著作に『日本という身体―「大・新・高」の精神史』『アメリカの影―戦後再考』『加藤典洋の発言』『可能性としての戦後以降』『戦後的思考』『日本人の自画像』『日本風景論』『ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ』『語りの背景』など。

批評とは何か。
ということを考えようと思い、準備していたら、面白いことがわかった。
筆者はもう二十年以上のあおだ、批評を書いてきているが、よく考えてみると、批評とは何か、と考えたことなど一度もない。
批評の歴史の本というものも、披いたことがない。
批評理論の本というものも、てんからあれは、批評について考える学者のような人が読む本だと思ってきた。
そんな人間が、批評の本を書くために、批評とは何かと改めて考え、また、そのための本を読んだりしたら、それは、ちょっと変ではないだろうか。
というより何より、誰もそんな一夜漬けの代物は、読みたくないだろう。
批評とは何か、も何も、筆者はいま自分が書いているものが批評というものなのだろうと思っている。
どこかに批評という定義があって、その条件に合致しているからと確信していうのではない。
あるとき、批評というのはこういうものであるはずだ、そうでなければずいぶんとつまらない。
と思い、批評はこうだと、とりあえず自分用に、決めたのである。
本文 抜粋

批評は何処にでもある。
ちょうど、酵母のように、どこにでも存在する。
そして、批評は、人の生活の中での経験と深く結びつき、言葉一般に浸透している要素、酵母としての批評は、専門家から一般公衆への視線の変更でもある。

筆者は、批評の原型の一つとして、兼好の「徒然草」を取り上げる。
閉じられたものでもなく、読んでいると窓が開いており、風を吹いてくる。
何事もとにかく書きとめておく。
心覚えでもあり、のちの日に役だつこともあるかと文字にする。
筆任せ、心任せを言葉にする。
そんな随筆(エッセイ)の「徒然草」の中に、どこにでもある、批評の酵母を見る。

多くの本や思想を紹介している本だ。
対談や映画、また、マンが、名刺、シナリオ、科学論文と多くの思想や考えを基に、筆者は自分の問いかけである“批評とは何か”を紐解いていく。
難解と言えば難解だし、一人の人の思考を追いかける本とも言えるし、“考える”ことを考えさせる、そんな本だ。

平明さが基礎にあり、世間や社会との接点を持ちながら、論文のような型でもなく、独自のスタイルや思考を持つ。
そんな筆者の批評への思いが伝わる、そんな一冊だった。

(J)

 

 

「僕が批評家になったわけ」 ことばのために