内田 樹  うちだ たつる
1950年東京生まれ。
東京大学仏文科卒。
東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程を中退後、同大学人文学部助手などを経て、現在は神戸女学院文学部教授。
専門はフランス現代思想、映画論、武道論。
「ためらいの倫理学」『「おじさん」的思考』「私家服・ユダヤ文化論」「先生はえらい」など著書多数。

「学びからの逃走・労働からの逃走」が主題の本である。
この「学びからの逃走」という言葉は、東大教育学部の佐藤学さんが言い始めた言葉だという。
90年代以降、学力低下の原因を探ってゆく過程で、子どもたちが積極的に学びから逃走しはじめていることに気づいたという。
「学びからの逃走」は、先人の民主化と人権拡大の努力の歴史として獲得された「教育を受ける権利」を、(今の子どもたちには)「教育を受ける義務」となっているのではないかと書かれている。
子どもたちの中に、「教育される義務」から逃げる喜びと達成感はあるのだろうか。

大学生の学力の低下の指針として、誤字が紹介されている。
「矛盾」を「無純」と書く。
生活の中で出会う本などでも、「矛盾」という文字はよく見受けるが、それを「無純」と書く。
言葉を「読み飛ばしている」。
読み飛ばしは、人間としてのひとつの能力でもある。
なぜなら、機械や動物には「何か分からないもの」というカテゴリーがないという。
わからない情報を「わからない情報」として維持し、時間をかけて噛み砕く。
先送りの能力は人間知性の際立った特徴だ。
ところが、先ほどの大学生たちは、わからないことがあっても気にならないのではないかという。
「知らないままでもいい言葉」として、気にならないので放っておく。

また、小さい頃から、家の手伝いをするなどの労働力としての自分に出会うことはなく(現代は家に子どもの手伝うモノがなくなっている)、先ずは親や祖父や祖母などから貰うお金で、自分の欲しいものを買う、つまり消費することから経験する。
支払えば、自分の満足感のあるものが手に入る。
稼ぐことと消費することの消費することから経験する世代人たちは、当然だが、払う代金は、自分の欲しいと思うモノを手に入れることであり、教育というサービスでも、自分の支払う代価に担うものが手に入るかどうかをチェックするし、品物やサービスが、支払いに値するかどうかをチェックするのは、当然のこととして受け止められる。
だが、教育の本質としては、時間をかけてわからないものを分かるものにしていくことが、知識の意味を知ることなのだが、子どもたちは、時間をかけてわからないものをわかるようにするという、教育に掛ける時間に価値や意味を見いだせないのだろうか。

子どもたちが、社会化される段階で、現代社会のもつ何かが、根深く弱者を生み出すのだろうか。
経済や教育、リスク社会やクレーマー親など、さまざまな事柄を引き出して、奥深い議論を引き出している。
日本社会に未来はあるのか。

(J)

 

 

「下流志向」 学ばない子どもたち 働かない若者たち