湯川 秀樹 Yukawa Hideki
1907年東京生まれ。
京都帝大理学部物理学卒。
39年、京都帝大教授となり翌年、学士院恩賜賞受賞。
43年文化勲章を受ける。
49年、日本人として初のノーベル物理学賞受賞。
研究者、科学啓蒙家としての活動以外に、平和論・文明論・科学論・教育論・人生論など多彩な分野で活躍した。
81年没。

 

しかし、「学問の道では」と聞かれると、簡単には答えられない。好運だったとも思えるが、人一倍、苦労したことも否定出来ない。
何しろ原子物理学といえば、二十世紀に入ってから急速に進歩した学問である。
その上げ潮の中で、自分の好きななことを自分の好きな流儀で、やって来ただけだともいえよう。
ただ、私は学者として生きている限り、見知らぬ土地の遍歴者であり、荒野の開拓者でありたいという希望は、一度開拓された土地が、しばらくは豊かな収穫をもたらすにしても、やがてまた見棄てられてしまうこともないではない。
今日の真理が、明日否定されるかも知れない。
それだからこそ、私たちは、明日進むべき道をさがい出すために、時々、昨日まで歩いてきたあとを、ふり返って見ることも必要なのである。
本文 抜粋

小川秀樹は明治40年(1907年)当時の東京市麻布区市兵衛町に生れた。
そののち、小学校から大学まで50年近く京都で過ごす。
大阪や阪神間にも暮らすが、また京都に戻り、アメリカからもどった時も、東山トンネルを抜けると帰ってきたと思ったという。
父・小川琢治は地質学者で、京都大学教授になり、京都で過ごすことになる。
非常に仕事熱心な人で地質調査のために全国を歩きまわったし、パリで開かれたバンコク地質学会議には、30歳で日本の代表として参加している。
学者である父は、ある場合には子どもに対して無頓着でありすぎ、ある場合には厳格でありすぎ、子どもの目からはやさしさに欠けることもないとは言えないようだった。
また、父のひざに乗って甘えたり、肩先をゆすって物をねだったりという記憶がないという。
子どもをまた一個の人格として認めようとしたのかもしれないが、子どもにおとなの意識を要求した。
母・小雪は、父が養子で入った小川家の娘だった。
本を読むのが好きで、当時としてめずらしく英語なども勉強していたようである。
家庭に入ってからは、特に京都に引っ越してからは、家で大半の時間を過ごすことになる。
知性的な人だったようである。

小さい頃は、父方や母方の祖父や祖母に可愛がられた。
いろんなところに連れていってくれてたようである。
社交性がなかなか育たなかったようで、学校で、「イワン(言わん)ちゃん」と付けられたあだ名は、無口で、人と関わるよりも本を読むことを好む彼の気質をよく表していた。

読書で空想の中を自由に駆け巡る。
数学に熱中し、理論物理学への情熱を学びの中で見つけていく。
父とはそりが合わず、密かに反発しながらも、自分の好きなことをやっていく。
決して学校の成績は良くなかったとあるが、数学に関しては天才的なひらめきを見せて、将来を期待されていたようでもある。

結婚するまでの27歳数か月までの回想である本書は、『湯川秀樹』という、名前からくるイメージで描かれる彼自身のことではなく、自分が感じたことや、自分自身の目で見たことを描こうと思ったという。
坦々と、自分自身から見たことを書き連ねていて、伝記とは一味違った内容は、一人の少年が大人になっていく過程を描く出しているとも言えるだろう。
物理学への苦労も少し触れられているが、自分に忠実に生きようとしたその姿には、共感を感じさせるものがある。

(J)

 

「旅人」 ある物理学者の回想