平田 オリザ (ひらた おりざ)
1962年東京生まれ。
国際基督教大学在学中に、劇団「青年団」結成。
戯曲と演出を担当する。
代表作に『東京ノート』(岸田戯曲賞受賞作)、『ソウル市民』『火宅か修羅か』など。
日本劇作家協会理事・事務局長。

対話劇は可能かー私たちが今、一般に「演劇」と呼ぶものは、西洋近代の枠組みを出発点としている。
そして、この「西洋近代劇」は、対話を基盤としている。
一方、日本語は、残念ながら、いまだ対話の構造を有していない。
これは、一見、絶望的な事態である。
もし、単純に、この事態だけを見るならば、「すなわち日本には、近代演劇は成立しない」という三段論法が成り立つだろう。
私たちは、好むと好まざるとにかかわらず、すでに西洋近代という枠組みを、文化の中に取り入れて生活している。
演劇でも同様であって、それは「民主主義」や「市場経済」と同様に、私たちは意識するしないにかかわらず、その枠組みのなかで舞台というものを考えている。
私たちが演劇作品、とりわけ翻訳劇を観るとき、「そりゃ理屈では解るけど、日本人は、そんなに喋らないよ」と感じてしまう、その原因の大半はここにある。
「対話」を、西洋人と同じレベルで描くこと自体に無理があるのだ。
本文 抜粋

演劇と言う手段を通じて、人間を見る。
人が解らなければ人は描けない。
また、「戯曲」描きながら、その中にある色々な制約を表現手段に変えていく。
観客の想像力を信頼し、ギクシャクせずに表現するのって、本当に難しい。

言葉を媒介にして、自分を表現する方法はいろいろある。
小説や映画もそうだし、また、至る所で人は人と話す。

日常の会話は、自分たちのプロットに添ったように人は理解するという。
特に日本人はその傾向が強いという。
プロットとは、話の筋のことである。
自分のプロットで人の話を聞き、自分のプロットで理解する。(例えそれが話している人のプロットとずれていても…)
そのプロットの違いを意識して、相手の確かめながら話すのを「対話」だという。
対話と会話は違うという。

冗長率の高さ
「冗長率」という項を見ていただきたい。
「冗長率」とは、言語学の世界の用語で、一つの文章のなかに、どれほど、伝えたい情報と(一見)無縁な内容が含まれているかを現す数値である。
この概念をもとに、『東京物語』の冒頭のシーンを分析してみよう。
とみと周吉の「会話」の際には、ほとんど冗長な単語は使われていない。
しかし、細君が登場し、「対話」のレベルになると、「ああ」「え」「まぁ」「いやァ」「えっえっ」といった冗長な単語が発言中に頻出する。
意外に思われるかもしれないが、「対話」においては冗長率は高く、「会話」においては低いのである。
私たちは、親しい者同士では、無駄な単語を使わないのだ。
ここで注意しなければならないのは、冗長率とはあくまで無駄な単語の含有率のことであって、文章それ自体が意味があるかどうかが問われるわけではない、と言う点だ。
ここでいう無駄な単語とは、人間が他者とコミュニケーションをとるときに、その潤滑油となるべきものである。
日本語においては、こういった間投詞や間投助詞が、話しての微妙な意図を表現する役割を担っている。
「対話」を書く場合には、これらの単語に注意深く台詞を構成しなければならない。
本文 抜粋

高校演劇などでは、特に「対話」を書くことが難しいようだ。
演技の面でも、友人との会話と、初めてであった人との対話が、全く区別されていない舞台をよく見かける。
理由は明白だろう。
現代の高校生には、他者と出会う機会が極端に少ないのだ。
偏差値で輪切りされ、等質の生徒が一つの校舎に集められ、さらに教室の中でも、気のあった仲間内でしか会話を交わさない。
そんな環境では、対話の能力など育つはずがない。
だが私は、このことを高校生のコミュニケーション能力の衰退いった言葉ですませたいとは思わない。
日本のよぷなムラ社会に集合体では、元来、本当の意味での対話の習慣などはなかったのだから。
日本語の歴史的な特徴としても、他者性の不在ということが言われるのではないかと私は思っている。
本文 抜粋

「対話」も「会話」も真剣に考えると、夜も眠れなくなるほど((+_+))難しい!!
それ以外にも俳優と演出者の話とか、コンテクストの話とか書かれている。
コンテクストとは文脈のことでるが、このコンテクストからどのように表現していくか、何てことが演出家としての立場も踏まえて書かれている。

日本各地で、「戯曲」の講座を持っている平田さん。
自分探し・自己表現と相まって、様々事を考えてみるチャンスのなるかも…。

(J)

「演劇入門」