もはや、少年少女が出会うような、
初々しい恋じゃない。
変わらない恋心なんてない、
そんなのとっくに知っている。
だけど……。
大人になっても「こんなの初めて」ってあったんだ。
すれ違いや別れをくり返してきた彼らだけが知る、
「最初で最後」のかけがえのない瞬間たち。
8人の作家が描き出す、
経験してきたすべての恋を肯定したくなる珠玉のアンソロジー。

本文 裏表紙より

吾川 佐和子
谷村 志穂
角田 光代
乃南 アサ
沢村 凛
松尾 由美
柴田 よしき
三浦 しをん

8人の作家が描く「恋物語」
それぞれの作家のタッチが面白い。
同じテーマで描くそのアイデアもなかなかのモノかも……。

「おかえりなさい」  角田 光代

角田 光代(かくた・みつよ)
1967年、神奈川県生まれ。
早稲田大学第1文学部卒。
90年『幸福な遊戯』で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。
96年『まどろむ夜のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲二文学賞、99年『キッドナップ・ツアー』で産経児童出版文化賞フジテレビ賞、05年『対岸の彼女』で直木賞受賞。
ほか多数受賞作品あり。

この話をするためには、まず、自分の羞部から説明しなくてはならない。
ぼくがだれにもこの話をしたことがないのは、ひとつには、この羞部をさらしたくないためでもある。
けれどぼくは、
今、どうしてもこの話をしたい気持ちでいる。
明日にはまったく他人になってしまうきみに、どうしても。
そうしてぼくは、閉ざされた寝室のドアをノックする。
荷造りをしていたきみは、不機嫌そうな顔でドアを開ける。
冷えたビールと、それからグラスを両手に持って、ぼくは寝室に入り、床にあぐらをかいて座る。
ジーンズごしに床の冷たさが伝わり、エアコンが入っていないことに気づく。
ぼくはリモコンに手をのばし、暖房をつける。
本文 抜粋

20歳になったばかりの「ぼく」は、同じ大学の1学年上の美人でいつも違う男子学生を連れ歩いている、女子学生に恋をしていた。

そのころの金のなさは半端ではなく、入ってくるお金は、映画や本や飲み会に消えていた。
少ない仕送りとアルバイト代ではデート代もままならない。
賄いきれるはずのない生活だった。

アパートの隣室に草加部という男が居た。
眼鏡をかけた地味な彼は、理工学部に通っていた。
あまり好きではなかったが、台所でインスタントラーメンを作っていた時、彼がビラ配りのアルバイトを紹介する。
居酒屋で深夜まで働くよりも数千円も高いそのバイトに興味をそそられた「ぼく」は、女子学生とデイトをしようと、そのバイトを始める。

簡単だと思っていたパンフレット配りは、想像よりも厳しく、一軒一軒配り歩くが思うようにはけない。
インターホンを鳴らして「お渡ししたいものがあります」と言ったところで、大概の家は門や玄関の戸を開くことは滅多になかった。
「郵便です」とか「宅急便です」とか、嘘までつくようになるが、嘘だと分かったとたんに戸を閉めたり、警察を呼ぶと脅されたりした。

パンフレットを捨てたり、ポストに詰め込んだりしたが、草加部が、そのやり方では支払えないという。
つまり一軒づつ配らないといけなかったのだ。

数日経つと、何となく要領がわかり、以前よりはうまく捌けるようにはなるが、腕や顔や首筋は真っ黒に日焼けし、デートを案じて、合間にTシャツを脱いで、全身を焼いたりもした。

彼女に出会ったのはJRと私鉄を乗り継いだ、降り立ったこともない名前さえそれまで知らなかった駅を降りて、めちゃくちゃに住宅街を歩いていた時だった。

インターホンを押しても反応がなく、もう諦めようとした時だった。
ガラス戸がゆっくりと開き、背の低い老婆が「あらまあ、お帰りなさい」と言った。
紙袋からパンフレットを取り出し、「あの、これ、よかったら読んでください」と差し出すと、老婆はその場にちょこんと座りこみ、パンフレットを受け取りながら、「暑いでしょう、そんなところに突っ立ってないでお入りになったらどう」とのんびりした声で言う。

家に上がりこんだ「ぼく」は、誰かと勘違いしている老婆の元にその後、足しげく通うことになる。

冷たいビールを飲みながら、いつしか「ぼく」は、恋していたはずの女子学生のことも、アルバイトのパンフレット配りも興味を失くしていく。

今日で別れる人と共に語る話。
彼が求めたものは何だったのだろうか?

つまらない話だと思ったかもしれない。
なんでこんなときに、そんな馬鹿みたいな話をするのか。
そう思ったかもしれない。
けれどぼくは、きみにこの話を聞いてもらいたかった。
きみと生活をはじめたときに、ぼくはあの見知らぬ家の時間を思い出していた。
本文 抜粋

(J)

「最後の恋」 つまり、自分史上最高の恋