ヴィクトール・エーリッヒ・フランクル  著

V.E.フランクルは、紹介するまでも無く、著名人である。
新フロイド派の精神分析家であり、ロゴセラピーという療法を考え出した人でもある。
ユダヤ人ということで、アウシュビッツに収容されて生還し、のちにアメリカに渡る。
著作多数。「それでも人生にイエスと言う」「夜と霧」など。

数年ぶりに、フランクルを読む。
ある精神分析家が薦めてくれての再読。

やっぱり凄い!の一言。
言葉に重みがある。
分析も凄い。
人が何故、個人の自由から逃げ出すのか。
答えは、孤独感や無力感からの回避。

これまでのところで、私がしめそうと試みたのは、一般的には近代的産業組織における、特殊的にはとくにその独占的局面におけるさまざまの要因が、無力感や孤独感、不安や動揺を感ずるパーソナリティーを発達させているということであった。
私はドイツの特殊な条件を論じたが、それこそはドイツの人口の一部分のなかに、さきに私が権威主義的性格として述べた性格に訴えるような、イデオロギーや政治的実践を豊かにそだてる土壌となったのである。

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しかしファシズムの脅威を国の内外を問わず真剣にとりあげても、もしわれわれが、われわれ自身の社会においても、個人の無意味さと無力さという、どこででもファシズム台頭の温床となるような現象に直面していることをみのがすならば、これほど大きな誤謬、重大な危険はない。
本文 抜粋

ナチス・ドイツのファシズムという出来事は、決して、昔話でもなく、さりとて今物語でもない。
一見、私たちに無関係に見える権威主義の背景にある心理的なものの要素が、依存であり、個人の抱える無力感や孤独感だとしたら、その心理は今事であり、ファシズムという状態に心理的には簡単になるということであるらしい。

しかし思想を表現する権利は、われわれが自分の思想をもつことができるばあいにおいてだけ意味がある。
外的権威からの自由は、われわれが自分の個性を確立することができる内的な心理的条件があってはじめて、恒久的な成果となる。

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近代人にたいする自由の二面性を論じたとき、現代において、個人の孤独と無力を増大させている経済的諸条件を指摘した。
すなわちその心理的結果を論じて、この無力は権威主義的性格にみられる一種の逃避を導くか、
あるいは孤独となった個人が自動人間となり、自我を失い、しかも同時に意識的には自分は自由であり、自分にのみ従属していると考えるような強迫的な画一性に導くことを示した。
本文 抜粋

つまり、“自分で選んでいるようでいて自分で選んでいない”ことが起きると言っている。
皆と同じことをして、周りに合わせて、それが自分だと幻影を見るという。
その時に個人の自主性は無く、主体的に生きる道は閉ざされる。

われわれの文化がこの画一性の傾向をどのように促進しているかを考察するのは大切なことである。
自発的な感情の抑圧、
ひいては純粋な個性の抑圧は、非常に早い時期に、じっさいには子ども最初の訓練とともにはじまる。
といっても、それは、教育の真の目標が子どもの内的な独立と個性、また成長と完全性とを促進することであるのに、訓練はどうしても自発性の抑圧を導くことになるというのではない。
本文 抜粋

本当に難しいテーマですね。
“躾” “学校教育”そして社会に出れば“社会のルール”。
果てしない訓練の中で、どうするんでしょうか私達!

社会心理と個人の心理を統合し、さらに、論を進めたフランクル。
やっぱり逸人ですよね。

(J)

「自由からの逃走」