斎藤 孝  Saito Takashi
1960(昭和35)年静岡うまれ。
専門は、教育学、身体論、コミュニケーション技法。
東京大学法学部卒業。
同大学院教育研究科博士課程を経て、現在、明治大学文学部教授。

『孤独』
何ともいえない響きの言葉である。
昔 昔、この『孤独』が苦手だった。
自分が一人ボッチだと考えるだけで、世界が急に暗くなり、
どうしようもない心の世界にはまり込んだことを覚えている。

年を取るという事は、一概にネガティブな事ばかりでないと思うようになったことの一つに、この『孤独』との付き合い方を私なりにそれなりに向き合えるようになったという事がある。
と言うか、年を取るにつれて、自分の心との付き合い方が分かるようになったってことかな・・・。

だからってどーってことはないのだが、でも、『一人』ってことを本当に心から楽しむのって、それなりの覚悟がいるように思っていたんだからね。

でも、ある時ふと気が付くと、人って生まれてから死ぬまでずーっと『一人』なんだってことに気が付いてしまった。
あらま~。
こっちの方が事実に近いんだよね。
今までの私の苦労?は何!

私の学生たちを見ていると感じることだが、一日の内訳で、同性異性を含めた友達関係の比重と、恋愛関係の比重が驚くほど高い。
時間、あるいは脳の配分と考えてもいい。
ほとんどをその二つがしめている。
あとは仕事や学業のいわゆる拘束された時間があり、自分のためだけに費やすパーセンテージはごくわずかだ。
いつもメールや携帯で誰かとつながっていて、寝る直前まで手放せない。
そうした生活の中では、本当に一人になることは不可能だ。
するとその人は、自分の泉に水を蓄えることも、泉から水を汲み上げることもできないのだ。
本文 抜粋

自分ひとりで居ると、まず、じわ~と静けさが来る。
来た来たと思いながら、その時感じる淋しさを感じる。
そうすると、湧き上がるように『一人だ!』という喜びにも近い感情が来る。
私は、泉から水を汲み上げたんだろうか???

『集団の孤独』は本当にキツイ。
一人になりたくないから、友達に出会い、楽しい時間を過ごそうと思いながら、何故か寂しい。
『分かって!分かって!』と心が叫ぶ。

私は認識主観が記憶の反復に基いて外界を解釈していることに気がつきました。
人はすれ違い、くい違うことが当たり前だと納得がいったのです。
それまでは、言ってみれば「自分が孤独である」というニュートラルな事実が腑に落ちてなかったのだと思います。
だからこそ、孤独をネガティブにとらえて悲愴感にひたったり、反対に「俺様は孤独で、誰にも理解されるエリートなのだ!」とポジティブにとらえて傲慢になる。
両極の感情を育てていた。
この時を境に、私は人は本当はみんな孤独であるという事を受け入れていきました。
そのことに気がつくまで、やはり私も苦しみました。
多くの人間関係を壊し、自分もボロボロになりました。
でもいまになってみれば、この時期のナルシシズムが持つ暴力性や、それによって苦しむ仕組みというものについて徹底的に学習しました。
手痛い学習でしたが、それが今の心の律し方につながっています。
孤独とは、言い換えれば自分自身に直面せざるを得ない時間のことです。
本文 解説(小池 龍之介 著)より 抜粋

確かに、一人で居る時は、全部自分決める。
自分で考えて自分で決める。
一見、当たり前のこのことってしんどい時あるよね。
『誰か如何にかして!』って叫びたくなる。

友達や周囲の人の顔色や機嫌や言葉で、気を使いながら、挙句にくたくたってこともあったよなって。
孤独に本を読み、孤独に自分を知る。
何かやり方を間違えるとマニヤックな趣味になりそう。
気を付けて一人を楽しもうっっと・・・。

(J)

「 孤独のチカラ 」