アリスター・ハーディ    長野 敬  中村 美子 訳

東日本大震災のことについて、テレビでインタビューを受ける人の話や声、また、福島原発や津波の状況を見るにつけ、涙が止まらない。
どんな思いで過ごしているんだろうと考える。(2011.03.147記)
普段の何気ない小さな幸せと呼んでもいい、自分の身の回りのいろいろな事やモノが、どれほど愛おしく、また、儚いものであるか、考え、感じる。
一日も早い復興と安定を祈る。

『科学の全歴史は十八世紀に至るまででさえ、計画的かつ意識的な神の直接の探究であった。・・・・・・・
コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、ニュートン、ライプニッツその他は、単に神を正統派的な方法では信じなかっただけである。
彼らの研究は人類に対して、それまでに知られていたよりもさらに多く、神について語っていると、彼らは信じていた。
そもそも研究にたずさわる動機が、神を知る欲求であった。
そして彼らは、自己の発見を神の存在の証明とするだけでなく、神の性質をますます明らかにするものとみなした。・・・・・・・・
ジョン・ラングドン=デーウィーズ 『人とその宇宙』よりの引用

本書は、“人間による神の経験には基本的な生物学的意義がある。”
という著者の信念によって書かれている。

「スペクトル」の一端にある生物物理学や生化学から、もう一端にある性的および宗教的な人間の情緒行動の研究という広範囲を科学的実験ではなく、体験者の記録を基本にして、集め、書かれている。

フロイドは、「エディプス・コンプレックス」という理論を提唱した。
人間の罪悪感の研究でもあるこの概念の説明やユング心理学の集合無意識としての神意識も書かれている。
キリスト教がうたう”罪意識”とは・・・。

しかし、筆者は、エディプス・コンプレックスという概念の正当さと重要性については、どうかということは考えるとして、道徳や、『倫理観』に絡む「権威の内在化」の過程と様々な形態の宗教的教義は、けっして同一の物でないでないという。

自我はその価値の無さと理想に添って生きることができないことを感じさせられ、超自我に反抗する意欲をあらゆる方法で失わせられる。
その罪の認証の証として、あらゆる種類の苦行ーたとえば生活の厳格な規律、断食、義務行為ーが奨励される。
義務はこの道徳体系の基調である。
この修練の結果として一種の悪循環が生じることが多い。
罪悪感を培い、超自我の優位を強化することによって、自我はその罪や価値の無さをさらに強く感じさせられる。
しかし自我が罪の意識を感じれば感じるほど、超自我はもっと強く自我を攻撃する。
従ってさらに罪の感情が増すことになる。
そこで自我が新たな行動を企てることにほぼ麻痺するようになるまで、この悪循環は続く。
その過程上唯一の歯止めは苦行と禁欲を通じて得られ、これは、自ら課した苦痛にさえいたることがある。
R.S.リー 『フロイドとキリスト教』

興味深い記述に、犬と人間の関係は、人間と神の関係に似ているという。

『生物系内でこれまで生じたある出来事で、非常に顕著であって事実上独自といってもいいものがある。
しかもそれは、非常に多くの男女が実在であると感じて神という名でよんでいるものに対する彼らの関係に、大変似たものなのである。
それは犬の人間への献身である。
それまでの自分の群のリーダーから、新しい主人へとその忠誠心や従順を移した動物がここにいる。
その上にこの動物は、忠実な従者であるばかりでなく、その新しい主人に対して、献身的な子供に似た愛情関係を持っている。
犬の目をのぞくだけでそれが事実であることがわかる。
その目は祭壇の手摺りに跪いている信者の目に似ていないだろうか。
私は冷やかしのつもりでこんなことをいうのではない。
本文 抜粋

考えてもいなかったいろいろな考えが、本書の中にいろいろと書かれている。

人間は、哺乳類に分類されるが、群れて生活するその有様は、ゴリラ・チンパンジーというより犬などの群れに近いという。
へーーーーー。

サイキックな実験も書かれていて、パラ心理学といわれる超感覚知覚(ESP)の事例や、十字架に架けられ、3日後に復活したイエス・キリストのように復活とも取れるような現象の記述などがある。

『ここしばらく、私はその日ごとの自分の日常生活の外にある何かの「力」あるいは導きと呼べるようなものと接触していることを経験してきた。
・・・・・・・心を集中した声のない祈りと、またある意味ではくつろぎとによって、私は全精神がこの力で満ち、私全体が再充電されるかのように感じる。
このことが起こるとき、不安、悩み事、その他のことが解決されるだろうということを私は知る。
そして事実そうなる。
本文 抜粋

東日本に向けて、「奇跡」という、この言葉を送り、祈る。

(J)

「神の生物学」