カイエソバージュⅢ    中沢 新一

経済が発達し、貨幣通貨になり、物質的に豊かな社会へと発達した現在。
物が豊かになり、本来なら幸せになるはずの社会で、なぜ,犯罪や心の喪失のようなことがおきるのか?

現代社会と嗜癖の関係を書いた本「嗜癖する社会」(A.W.シェフ 斉藤学 監訳)の中で、社会構造としての嗜癖システムを解く。

『社会が嗜癖という病気に罹っているという認識こそが、今日直面している諸問題に対する他の解釈や対処法を見逃していたものです。ほとんどのものは、特定の関心や分野にだけ焦点をあてています。それは、私たちの断片的な社会においてはごくあたり前のことですが、こうした視野の狭さは、嗜癖者の特徴でもあるのです。』

『システムを観察する人びとが、システムに近過ぎ、巻き込まれ過ぎているために、それがはっきり見えなくなっているということもあるのです。』

「嗜癖する社会」  本文 抜粋

「愛と経済のロゴス」の中で、ロゴスとは、“世界を全体として捉える力”としている。
「愛」と「経済」を一つの全体に取りまとめる力であるロゴスとも表現している。

「純粋贈与」「贈与」「交換」という人がモノを媒介にして関係をつくる3つの様式が書かれており、現代という社会が、心とものをどのようにして行き来しているかを説明している。
「純粋贈与」とは、神のみがおこなうことができる何の見返りも求めぬ贈り物。
「贈与」とは、単に、モノを「贈り物」として相手に不確定ながら何かの意味が相手に手渡されるもの。
「交換」とは、商品の売買からなり、商品の価値に相当する代価が支払われるものとなります。

つまり、「交換」は、それをつくった人や前の所有者の人格や感情などが含まれていないのが原則であり、等価交換が当然であると同時に、
モノの価値は、確定的で、計算可能なものに設定されている。

現代社会は、「交換」の世界である。
“生産者の顔がみえる商品”という売り文句が、商品の付加価値になり、物々交換があたり前の時代には考えもつかなかった“生産者の顔”に価値がつく。

そんな中、人はアディクションにハマる。
モノへの依存・アディクションであり、行動への依存・アディクションである。

モノが欲しくて買う。買うこと自体が快感や満足をもたらす。
言い方を変えれば、買うことという行為そのものに意味がある。
だから、次々にモノを買う。買う時ときのみに充足感を覚える。

人は、モノを買うときに、物以外の付加価値を買う。
それは、一体如何いうことだろう。

合理的な経済観念が必要とされる時代の中で、「愛」と「経済」は、別々のことのように扱われ、本来「純粋贈与」や「贈与」という行為の中に含まれている。
人と人との交流や、交流の中に含まれている何らかの意味が、モノの値段や品物の良し悪しで決定しがちで、単に、自らの欲望や何らかの満たされぬ思いを、モノを消費したり、
モノを買うことで満たそうとしているのか。
それとも・・・?

心の飢えは、「純粋贈与」といわれる何の見返りも求めぬ愛を求めて彷徨っていても、何の不思議もないような気がする。

悪循環にハマりがちな今。
今という時は、決して動かない。
本当に必要なモノは、何なんだろう?

(J)

「愛と経済のロゴス」