著者 ライアン・ワトソン
ジェリー・ダービッシャー(写真)
訳者 内田美恵
発行所 河出書房新社
1997年 8刷発行

“水”は、その神秘さで私の心を捉え、そして、その凶暴さゆえ、私を謙虚にする。
自然は、本来その神秘さと凶暴さの両面を持つがゆえに、信仰の対象とされてきた。

“水”は、私たちの生活を支える重要な位置を占め、無くてはならぬものでもある。
余りにも、当たり前になっている今の生活の中で、本来の神秘の部分をこの本は、美しく、また神々しく捉えている。

体内の70%が、水で作られてる人間。
私たちも、また、神々しさと凶暴さを内に秘める生き物なのだろうか。

宇宙に存在する温度には、星間空間の超低温から、熱核反応を起こして激しく燃える超高温にわたる幅がある。そのじつに2000万度というとてつもなく広い範囲のうち、液体状の水が存在し得るのは、評点から沸点の間のわずか100度間に限られている。適切な説明がまだないが、とにかく地球は、ちょうどぴったりの大きさと状態の恒星、つまり太陽から、程よく離れた位置を見つけたのだ。その結果、本来なら束の間であるはずの稀な温度帯が長く保たれ、ここに40億年にわたる水の歴史が悠然と流れはじめたのである。(本文より引用)

水は最古の元型(アーキタイプ)である。善の力でありながら悪の力でもある。生命をはぐくむが、洪水や津波となって襲いかかりもする。
水の精がどことなく不機嫌なのは、この二面性が原因なのだ。水の精は、馬に乗り下半身が魚の形をしたリトーンから、船乗りを誘うセイレーンにいたるまで、さまざまある。どこの神話にもよく出てくるのは、気まぐれで自分の姿を目まぐるしく変え、予言を行う謎めいた「海の老人」である。また、川辺に座って、不用心な若者を誘惑し溺れさせる長い髪の水の精も、しばしば登場する。
ギリシャ神話のネプチューンや、プロテウス、ネーレーイスといった多情な神族のように、淡水の神がみだったのに海の精になったものもいる。もともとは、人間に不可欠な水を守り保証してくれた神がみだったのだ。与えるとともに奪う自然の力に対する、人間の矛盾する感情を表現しているのが水の精と言える。(本文より引用)

われわれの想像力は、水に彩られている。そのなかにあっては、水は大地の瞳である。輝く瞳のように澄んだ水は鏡となってわれわれの姿を映しだし、ひとりひとりを世界の中心に据える。深い水は、底知れぬ闇のように暗く、洪水による溺死を暗示する。
水が波立つと、心は挑発され相反する想いに引き裂かれる。水は我々の気分を反映して、関心や意識を小波で表現することもあれば、荒れ狂う海の大波で怒りを爆発させることもある。そしてこれらをとおして、水は母性の声となり、体内の記憶をよびさます。・・・・・・・
われわれは、水と赤ん坊を結びつけて考えがちである。胎内に羊水ごと子を宿し、拾われた赤子がまかせられるのは、英語で「水の子守役」を原義とする「乳母 wet nurse」だ。アフリカのダゴンバ族は、妻が水を運ぶ夢を見たときは懐妊の予兆であると信じている。フロイトの夢分析でも、水の夢は誕生時の記憶と解釈される。つまり、誕生体験の反映というわけである。だからこそ、水に身を浸す儀式や洗礼式が、再生の隠喩として広く受け入れられているのだ。(本文より引用)

(J)

「水の惑星~地球と水の精霊たちへの賛歌」