草薙厚子 著  講談社発行

「奈良エリート少年自宅放火事件の真実」と副題にある。
2006年6月に起きた事件に取材した作品。

二時間弱で一気に読み終える。
読み始めて五分経った頃、そして読み終えた後しばらく、涙が流れてきて止まらない。
私の何が動いているのだろうか?

この一件における事実は何か。それは私には、知りえない。
私にわかるのは、この本を読んで、それに触発されて、私が考えること、感じることのみ。

読み終えたあとの何とも言えない感じ。
かつては活気のあった町が、人っ子一人いない町となり、その中で商店の「大売出し」の横断幕だけがやけに色鮮やかに風に揺れ空が青い、そんな光景が目に浮かぶ。

人は生きている中で様々な行動をする。
それは、その人の在り方、それまでの経験の中で身につけたもの、その時の状態、etcによって様々であろう。

少年は「自宅に放火する」という行動を起こしたとされる。
彼がその行動をとる時に越えた踏み切りの一線は、一体何だったのだろうか。
本の中に書かれている、「広汎性障害」が一線を越えさせたのだろうか?

人はいろんな経緯の中で、「何かのため」そして「誰かのため」に行動する。
そのときに、そこにはらまれ、そして生じるかもしれない「暴力」。
「自分の何かを犠牲にしている」という思い、「何かを抑えなければならない」という事情、があればあるほど、その危険性は、高くなるのかもしれない。

社会的地位、権威、学歴、出自、収入、財産、金銭、持ち物、成績、学力、体力、運動能力、身体機能、容姿、性別、理論、主義、主張、知識、様々なものに、私たちが付与するであろうパワー。
子どもと親、その、ある部分でパワーの不均衡な関係の孕む危険性。
そして、親もまた子どもであったという事実。

「悪意を飼いならす」と題された文章を読んだことがある。
自分の中にある「悪意」。それに気づかない限り、「悪意を飼いならす」ことは難しいだろう。
自分の「善」を信じて「悪」を疑わない確信。それは、他者を排斥し迫害する。

「虐待者との同一視」という防衛の仕方があるという。
自分の感じる「恐怖」。それに耐えられなくなったときの自分を守る方策として何をすればいいのか?
「感じない」ことで守る守り方がある。
「感じない」ことで自分を守っても、次々脅威がやってくるとき、どうしたらいいか?
「感じない」ことで自分を守っても、内に取り込んだ「脅威」や「恐怖を感じさせるもの」が自分の中で増大し内から自分を脅かす時に、どうすればいい?

私が、「私は正しい」「私はいい人だ」「私は被害者だ」etc.と思うとき、私は「加害者」になりうる。
私が、「私にはどうしようもない」「この場をとにかくどうにか切り抜けなくては」「どうにかするにはこれしかない」etc.と思うとき、私は「無力な人」「暴力的な人」になりうる。

自分を開いて生きること、そうして、私たち一人一人を受ける受け皿としての「人々」「世界」があること、それがたった今の私の一つの理想。
その目標達成のために、今、ここから、私は何をする?

寂しくて悲しい。
その一方で、それでも明日は来るだろう、と思いつつ。

(J)

「僕はパパを殺すことに決めた」