カール・ベッカー編著 法蔵館

“死”は、語られざるテーマと考えている人達も多い。
以前、私もそう考えていた。
ところが、“自分もいつか死ぬんだ”と、死の恐怖に圧倒された事がある。そのとき以来、“いつかは死ぬ存在”として自分のことを捉えている。
そして、死を語る必要を感じて、“ターミナルケアー”を開き、今も語り続けている。

死のポルノ化  一人称の死・二人称の死・三人称の死
臨死体験  スピリチュアル・ケアーということ
ケアーの力学 死後の魂について  病気とは何か
死の質 etc.etc

どのテーマ一つとっても語りつくせぬものがある。
生きているということは、“死の体験”がないと言うこと。
この観点から言うと、このターミナル・ケアー程、平等かつ対等なテーマは、ないのかもしれない。

「ポルノは、人間の一番プライベートなところ、すなわち本来大切にすべき聖なる部分をモノと見なして、売り物にすることである。世界的に奴隷制度が廃止され、犯罪とされているのも、人をモノとして使ってはいけないからである。また、売春を犯罪と見なす社会がほとんどであるが、それは性病を避けるためとか、夫婦関係・家族制度を守るためだけではなく、やはり相手の女性を単なるモノとして見てはいけないからである。」

本文  抜粋

「ソンダースは、末期がん患者の抱える痛みには、身体的な痛み(physical pain)のほかに、病気が原因で不安になったり孤独感を感じたり憂鬱になったりする心の痛み(mental pain)、家族への心配や経済的な不安などの社会的な痛み(social pain)、そして四つ目の痛みspiritual painがあるとした。(1990)。これらの様々なレベルの痛みは複雑に影響しあっているもので、それらを全人的にケアすることがホスピスの中心的な目標になったのである。」

本文より抜粋

死 (Death)

死の判定は、生命維持に重要な心臓、肺、脳などの主要器官の機能が停止したことをもって下されてきた。そのために、わが国においては脈拍の停止、呼吸運動の途絶、瞳孔反射の消失が24時間続いたことを、法的な死の判定基準にしている。
しかるに、近年、臓器移植の外科学が急速に進み、死体からの臓器を移植することで、多くの重篤な患者を救うことができるように及んで、死の判定基準が再検討され、脳死(脳波の平坦化)をもって、死の判定の必要かつ充分条件になりうるという考えが、世界的風潮として生まれてきた。しかし実際は、脳幹も含め脳のすべての部分で活動電流がなくなったということを的確に証明することの困難さや、脳死後人口心肺で植物人間として生命を維持することもできると考えると、この問題は国によって異なる宗教観や倫理観ともからんで、未だ世界的に一致した見解には達していない。

「病理学概論」畠山 茂著 より抜粋

「生と死のケアを考える」