田中 一村 (たなか いっそん)
日本画家。
1908年栃木県生まれ。
7歳で米邨の号をもらい、神童と騒がれる。
26年、東京美術学校(現東京芸大)入学。
同期に東山魁夷らがいた。
だが結核を患い、父の病気も重なり、わずか3か月で中退。
47年清龍展に入選するが、翌年川端龍子と意見を異にし、以降中央画壇との接触を断つ。
58年奄美大島へ第一歩を記す。
五年間大島紬の工場で働き、三年間は絵に専念するという生活を繰り返す。
77年没。

教育熱心な母セイと、天才的彫刻家の父弥吉の長男として生まれる。
小さい頃から画才を発揮。
勉強熱心な母親の影響もあり、学校でも主席か次席を取る。
背のすらりと高い一村(孝)は、礼儀正しく貴公子然として、特に絵を描く時は、誰も寄せ付けないほどの熱心さで
周囲には緊張感が漂っていたという。東京美術学校に入学したが、病気と経済的理由で中退するが、自身は絵を描くために一生を捧げる。
絵を経済的理由で売ることを嫌い、極貧のうちにその生涯を閉じた。昭和三十三年、50歳のときに、千葉の自宅を売り払い、奄美大島へと行く。
そこでその生涯を閉じることになるが、最後まで自分の絵を描こうとし、生活のために大島紬の工場で働かざるを得ず、そのために絵を描く時間も少なかったという。

一つ一つの描写にこだわり、描く物の本質を見極めて描こうとし、様々な事を調べ、本質を掴もうとした一村は、精巧なその作風もあって多くの作品を残さなかった。

奄美での知り合い宮崎夫妻は、一村亡き後遺作展を開く。
その個展がきっかけとなり波紋を広げ、NHK鹿児島放送局が取り上げる。中央画壇とは、縁のなかった一村の存在は、その後、NHK『日曜美術館』で『黒潮の画譜』として紹介され、全国に紹介され反響を呼んだ。伝統的な日本画とは異なり、本来なら用いないモチーフを画く一村。
作品は、彼も天才ぶりを如何なく発揮しているように思う。

 

「アダンの木」 昭和48年 作品

「ダチュラとアカショウビン」 昭和42年 作品

   「クワズイモとソテツ」 昭和40年代 作品
(J)
「日本のゴーギャン 田中一村伝」