平田 オリザ (ひらた おりざ)

1962年東京都生まれ。
国際基督大学在学中に劇団「青年団」結成。
戯曲と演出を担当。
現在、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授。
2001年度から採用された、国語科教科書に掲載されている平田のワークショップの方法論により、多くの子どもたちが、教室で演劇を作りようになっている。
戯曲の代表作に『東京ノート』(岸田國士戯曲賞受賞)、『その河をこえて、五月』〈朝日舞台芸術賞グランプリ)、などがある。

近頃の若者に「コミュニケーションの能力がない」というのは、本当なのか。

ロジカル・シンキング、クリティカル・シンキング、グローバル・コミュニケーション・スキルと言った言葉があるが、そもそもコミュニケーションとは何か。

「旅行ですか?」という台詞

さて、ことほど左様に、話しかけるという行為一つとっても、お国柄、民族性、国民性といったものが表れる。
先に書いたように、日本では、列車の中で他人に話しかけるのは一割に過ぎない。
一方、アイルランドのダブリン市立大学でワークショップを行ったときには、なんと全員が話しかける方に手を挙げた。
どのような場合に話しかけるかという議論にさえ進めなくなってしまった。
……
俳優は、台本を渡されると、多かれ少なかれ、その演じるべき対象の人柄を想像しながら演技を行う。
これを通常、「役作り」と呼ぶ。
上品な人なのか下品な人なのか、怒っているのか悲しんでいるのか、集中しているのか心ここにあらずか……。
何らかの想像をしながら、俳優は発語をする。
今問題になっているのは、「旅行ですか?」という台詞である。
この台本自体は、英語に翻訳しようが韓国語に翻訳しようが、誤訳のしようもない簡単な言葉だ。
俳優の想像力を駆使するまでもない台詞のように思われる。
しかし、この「話しかける人」が、どこの国の人なのか、あるいはこの台詞、この台詞を書いた人間がそもそも、どこの国の出身なのかによって、この「旅行ですか?」という言葉の意味あいは大きく変わってくる。
話しかける人がアイルランド人なら、これはまったく普通の行為だ。
先般、フィリピンから来た留学生に聞いたところでは、列車の中で長時間乗り合わせているのに話しかけなかったら、そちらの方が失礼だという答えが返ってきた。

本文 抜粋

言葉を媒介にしたコミュニケーション・スタイルでも国や性別、民族、宗教そして状況によって言葉の持つ意味などは変化する。

グローバル化が叫ばれ、言語としてのコミュニケーション・スキルとしての英語教育は叫ばれる今、人と人が解り合うことは、単純に会話していることではない。

だが一方で、こういった「察しあう」「口には出さない」というコミュニケーションは、世界においては少数派だ。
少数派だからダメと言っているわけではない。
少数派の利点も随分とある。
あるいは、現代社会のようにキリスト教とイスラム教という一神教同士が正面からぶつかりあっている世界の現状から見ると、「まぁ、まぁ、そこはお互い察しあってさ」という仏教的というか、
日本的というか、そのような曖昧で慈愛に満ちたコミュニケーションの形が、なんとなく世界平和に貢献できる部分もあるのではないかと感じることも多い。
だが、そうは言っても、やはり文化的に少数派であるという認識は、どうしても必要だ。
そうでないと、ビジネスや日常生活の場面では、日本人は、いつまで経っても理解不能な変わり者扱いになってしまう。

本文 抜粋

察しあう文化の良さを持ちつつ、異なる価値観との対話は必用だといい、「対話の基礎体力」をつける。
「対話の基礎体力」とはどうせわからないだろうと諦めたり、何でわからないんだと切れずに、粘り強く説明することのようだ。

異なる価値観と出くわしたときに、物怖じせず、卑屈にも尊大にもならず、粘り強く共有部分を見つけていくことは、分かり合える喜びを作り出していくようだ。
そういう教育を演劇を通じて、役を演じながら、子供たちに伝えている。

社会的弱者は、何らかの理由で、理路整然と気持ちを伝えることのできないケースが多い。
いや、理路整然と伝えられる立場にあるなら、その人は、たいていの場合、もはや社会的弱者ではない。
社会的弱者と言語的弱者は、ほぼ等しい。

本文 抜粋

協調性から社交性へと。
社交性とは「うわべだけの付き合い」を指すのではなく、「バラバラな人間が、価値観はバラバラなままで、どうにかうまくやっていく能力」だという。
日本人の価値観も多様化している。
それに敏感な反応している若者は、コミュニケーション能力がないのではないという。

すぐに分かり合えないことを当たり前のこととしながら、コミュニケーションの大きな転換の時期を迎えようとしているようだ。

(J)

「わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か」