長尾 三郎

現在の生き仏―と呼ばれる酒井大阿闍梨は、人間失格ともいえる青春時代を送る。
39歳で比叡山に登り、仏門に入る。
死臭漂う「堂入り」。
死に装束を身にまとい、自害用の剣をたずさえての「回峰行」その人間業とは思えぬほどの行と、彼の落ちこぼれとしての人生前半を書く。

昭和五十年四月七日、酒井は午前零時に起床すると、すぐ褌一つの素裸で庭の一隅にある滝に入った。
滝つぼへ唸るような音をたてて落下する不動滝の音。
その飛沫の中に仁王立ちになった酒井は、印契を結び、低いがよく通る声で不動真言を唱え始めた。
「ナーマク サーマンダー バーサラナン センダン マーカーロ シャナ ソワタヤ ウンタラター カンマン。……」
この真言を唱えながら、飛瀑の中で微動だにしない。
やがて不動滝から加行之滝に移り、ここでは激しく体を動かす。
裏山の岩に向かって相撲の鉄砲をやり、四股を踏む。
激しい肉体鍛錬の一つである。
やがて身を清めた酒井は、すぐに不動堂に入り、朝の勤行を始めた。
約四〇分、ひたすら不動明王に祈り、千日回峰の成就を祈願した。
それから庫裡に戻り、出峰の準備である。
特別の気負いはなかった。

本文 抜粋

酒井忠雄は、大正14年生まれ。
戦前・戦中・戦後を生きる。

昭和17年「陸軍軍医学校防疫研究室」で雑用係で仕事をする。
家計を助けると同時に、慶応義塾商業学校の夜間への学費だった。
この研究所は特殊な研究をしていたらしく、細菌戦兵器を開発し、第731部隊の恐怖として戦後知られるようになる。

その後第2次世界大戦で、特攻隊を志願した。
時代の子であった酒井にとって、特攻隊は憧れでもあった。

戦友は次々と亡くなっていく中で、幸か不幸か、彼は生き残る。
そのかれの心には自分だけが生き残ったという〝心の負い目”だったという。

戦後、闇市で開いたお店は火事で焼け、酒井は危機一髪で助け出される。
それ以降も仕事と言う仕事はうまくいかない。
周りの勧めもあって結婚をするが、妻は自殺。
『自分がだらしないからだ。』『人から後ろ指をさされるようなろくでもない人間なんだ。』
と、精神的に追い込まれた酒井が、まわりの人の誘いに比叡山に登り、行の世界へと進んで行くことになる。

山田座主がこう話す。
「私どもは、世間一切のものが相対的であるという一つの原点に立っている。
陰と陽、裏と表、上と下というように、すべてが相対的になっておる。
仏さまにも相対性がある。
慈悲の相対、悲を中心とする人、慈を中心とする人、この二つの面があるんです。
慈を中心にしたときに観音さんになる。
悲を中心にしたときに不動さんになる。
衆生は煩悩の徒ですから、悪縁にとりつかれることもある。
まず第一番にその苦しみを取り除いてやることだ。
それで不動さんを先に遣わして苦しみを除いてやり、そのあとに観音さんがいかれて慈を施される。
こういう考え方になっているわけです。
不動さんの必要性はそこにある。
悪縁を断つ。
仏というのは性善じゃないんです。
全部ある。
その悪心をようけ(たくさん)使うか使わないかによって、その人の幸せ、不幸せが出てくる。
天台は性悪説をとるんです。
人間なるがゆえに悪はあるんだと。
けれど、悪を使えば苦しみが生まれるから、絶対に悪を使わない修行をする。それを達成せられたのが仏なんです。」

本文 抜粋

39歳で修行僧になった酒井は、その年齢を感じさせない行を繰り返す。
自身の『落ちこぼれ』を清めるためでもあったのだろうか。

千日回峰行のあと、半年後には二千日回峰行に入る。
その行の凄まじさは「堂入り」と言われる9日間の経三昧を不眠不食で行う。

命を落とす人もあるというこの行は、真っ白な死に装束で行われ、7年かけるその行の間、例え肉親が死のうと、自身が病気であろうと、途中でやめることは許されない荒行である。
人としての生き方を問う行でもあり、並みの気持ちでは勤まるものではないであろう。

一般の人に向けて、一日回峰行は、今も行われている。
阿闍梨が回峰行で歩く山道を歩く行を垣間見るたった一日だけの回峰行である。

坂本の土地からのぼる朝日は、神々しいまでに美しい。
まるで心に朝日が差し込むように感じられる。
本当に美しい。
そして、比叡山・無道寺への道は遠い。

(J)

「生き仏になった落ちこぼれ」 酒井雄哉大阿闍梨の二千日回峰行