内田 樹 (うちだ たつる)
1950年東京生まれ。
東京大学文学部仏文科卒業。
東京都立大学大学院博士課程中退。武道家。
神戸女学院大学文学部名誉教授。
専門はフランス現代思想、映像論、武道論。
多田塾甲南合気道師範。
著書に『ためらいの倫理学』『寝ながら学べる構造主義』『「おじさん」的思考』『先生はえらい』『下流志向』『街場のメディア論』『邪悪なものの鎮め方』『私家版・ユダヤ文化論』で第6回小林秀雄賞、『日本辺境論』で新書大賞2010受賞。第3回伊丹十三賞受賞。2011年1月22日、神戸女学院大学で行われた「最終講義」を含む、講演録6講義を集めた本である。

難解な言葉ではなく、話し言葉ならではの講演記録で、途中には脱線もある。
内容は、教育に関するもので、〝さすが”と感心したりしながら面白く読む。

教育の等価交換はいらない

先日、品川区が通いたい小学校を子どもたちが自由に選べるシステムにしました。
すると、生徒が集まりすぎる学校と、全然来ない学校に二極化した。
そして、生徒数の獲得に成功した学校の校長の談話が出ていました。
校長曰く、「うちの学校では、教育コンテンツは商品である」
「保護者たちはお客様だと言い聞かせております」。
僕はそれを読んで、ほんとうに目の前が真っ暗になりました。
「教育は商取引ではない」という根本的なことがこの人にはわかってない。
これから教育を受けようという側の子どもたちは、自分が受ける教育の内容をまだ理解していないわけです。
これから自分が受けるはずの教育の意味や有用性が理解できないという事実自体が、彼らが「教育を受けなければならない理由」なわけです。
でも、商品の場合、そういうことはありえない。
目の前の商品に関して、その有用性も意味もわからずに買うという消費者はいない。
消費者は、商品購入に先立って、目の前に並んでいる商品の価値や有用性を熟知しているものと想定されています。
だから、複数の競合商品の中から最も費用対効果のよいものを選び出すことができる。
それが「マーケットは間違えない」という市場原理の基本にある考え方です。
学校を「店舗」、子どもたちや保護者を「顧客」、教育活動を「商品」というふうに見立てると、どうなるか。
消費者であるところの「お子さまたち」や「保護者さま」の前にさまざまな教育コンテンツを差し出して、その中で一番費用対効果のいいものを「お客様」にお選びいただく、と。
そんなことをしたら、その後の子どもたちがまじめに勉強するはずがないという単純な理屈がどうしてわからないのか、
僕はそれが不思議です。
だって、「お客様は神様」なんですよ。
「神様」というのは単に店舗や従業員に対して上位者としてがみがみ注文をつけることができるという意味だけではありません。
全知全能のものとして、「そこで行われていることはすべてお見通しだ」
とうそぶきながら教室に登場してきたときに、学びが成立すると思いますか?

本文 抜粋

成程!
今教育現場は変革を求められている。
いじめや学力の低下などが叫ばれる中で、今一つこれといった解決策がないと言われている。

別にそれほど奇妙な話をしているわけではありません。
卑近な例で言うと、米ソの宇宙開発がそうでした。
六〇年代にアメリカとソ連が宇宙開発競争をしているとき、宇宙工学技術は異常な速度で進歩を遂げました。
ところがソ連が崩壊して、アメリカが宇宙工学を一元的に支配するようになったら、その後、何が起こったかというと、NASAの宇宙工学の崩壊的な質的低下が起こったわけですね。
つまりこれこそまさに「矛盾」なんです。
「どちらが先に宇宙を支配するか」と競っているときに、宇宙工学は飛躍的に進歩した。
しかし一方競争相手から下りて、「矛盾」がなくなってしまったときには、宇宙
工学は前に進めていた何かが消え去ってしまった。

そういうことって、
身の回りにいくらでもあると思います。
そして、
その代表が子育てなんです。
……


文化人類学者クロード・レビィ=ストロースはその『親族と基本構造』という本の中で、
親族というのは、
最低四つの項から成り立っているという仮説を立てています。
ここに父と母と息子がいたとします。
その3項では親族として不十分である。
これに第四の項として、「母方の男の兄弟」つまり「おじさん」が加わらないといけない。
レビィー=ストロースはそう言うんです。
つまり「お父さん、お母さん、息子、おじさん」の四人をもって、「親族の基本構造」とする、と。
なぜなら、核家族では子どもが成長できないからです。
男の子が成長するためには、どうしても、父親の他におじさんがいなければいけない。
文化人類学が観察した限りのすべての社会集団では、父親とおじさんはこの男の子(息子/甥)に対して、相反する態度をとるそうです。
父親が息子に対してきわめて権威的で、親子の交流が少ない社会では、おじさんが甥を甘やかす。
反対に、父と息子が親密な社会では、おじさんが恐るべきソーシャライザーとなって、甥に社会規範をびしびしと教え込む。
男の子の前に二人の成人男性が「ロールモデル」として登場してくる。
それぞれが彼に対して相反することを言う。
一人の男は「こうしなさい」と言い、もう一人の男は「そんなことしなくてもいいんだよ」と言う。
一人は「この掟を守れ」と言い、一人は「そんなの適当でいいんだよ」と言う。
同格の社会的な威信を持った二人の同性のロールモデルが
まったく違い命令を下す。
この葛藤のうちに子どもは幼児のときから投げ込まれている。
というのが、親族の基本構造なんです。
何のためにそんな葛藤を仕掛けるのか、
その理由はもうおわかりですね。
子どもを成熟させるためです。
子どもを成熟させるプロセスというのは、装飾を剥ぎ取って言えば、「それだけ」なんです。
子どもというのは「こうすればよろしい」という単一のガイドラインによって導かれて成長するのではなく、「この人はこう言い、この人はこう言う。
さて、どちらに従えばよいだろう」という永遠の葛藤に導かれて成長するのです。
本文 抜粋
内田さんはこうも言う。
『自分の意見も一つの意見にしか過ぎない。』
また、『どこかの誰かの意見もまた一つの意見として』とも言う。矛盾や葛藤は苦しい。
そしてその迷うの中にこそ成長はあるという。
本当に考えてしまう、そんな本だった。

(J)
「最終講義」