hon20150507村上 春樹  Murakami Haruki

1949(昭和24)年、京都市生まれ。
早稲田大学第一文学部卒業。
’79年『風の歌を聴け』(群像新人文学賞)でデビュー。
主な長編小説に、『羊をめぐる冒険』(野間文芸新人賞)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(谷崎潤一郎賞)『ノルウェーの森』、『国境の南、太陽の西』、『ねじまき鳥クロニクル』(読売文学賞)、『海辺のカフカ』、『アフターダーク』、『IQ84』(毎日出版文化賞)がある。
その他短編小説集、エッセイ集、紀行文、翻訳書など著作多数で、海外での文学賞受賞も多くある。

どうして僕がここに顔を出したかというと、過去に僕の身に起こったいくつかの「不思議な出来事」について、じかに語っておいた方が良いだろうと思ったからだ。
実を言うと、そういった種類の出来事が僕の人生にはしばしば起こった。
あるものは意味を持つ出来事であり、人生のあり方に多少なりとも変更をもたらすことになった。
またあるものはとるに足りない些細な出来事であり、それによって人生がとくに影響を受けるということはなかった――たぶんなかったと思う。

本文 抜粋

筆者の村上春樹さんが、本の冒頭で自身の不思議な出来事を語ることから始まる短篇集。
ほんの些細なことだけど、あっと思うことって確かにある。

品川猿

彼女の名前は「安藤みずき」だ。
結婚前の名前は「大沢みずき」。
とくに独創的な名前とも言えないし、ドラマティックな名前との言えない。

みずきは一年ほど前から、自分の名前が思い出せなくなっていた。
思い出せないのは自分の名前だけに限られていた。
まわりの人の名前も覚えているし、自分の住所も電話番号も大事な仕事関係や親しい友人関係の人の電話番号も覚えている。
パスポート番号も忘れない。

その名前は突然逃げ出した。
日を追うごとに頻度が増して、「名前のない一人の女性」として世に取り残されることになった。
映画に出てくるような全面的な記憶喪失とは話が違う。
しかし自分の名前が思い出せないというのは、やはりおそろしく不便であり不安だった。

宝飾店で、細くてシンプルな銀製のブレスレットを買い、そこの名前を彫り込んでもらった。
これじゃまるで犬か猫みたいだと自嘲的に思ったが家を出る時には、必ずそのブレスレットをつけた。

みずきは都内の女子短期大学を卒業し、ホンダの役員をしている伯父の紹介で販売店で働く。
意欲的にキャリアを積み重ねていきたいという願望はなかった。
決められた仕事をこなし、有給休暇もとり、プライベートな生活をゆっくり楽しむという方が性格に会っていた。

名前が思い出せないことは、アルツハイマーの可能性もあるし、思いもよらないような複雑にして致死的な病気も存在する。
総合病院に行って自分の症状を説明したが、医者はあまり真剣にとりあってくれなかった。

そんなある日、郵便物と一緒の配達されてきた品川区の広報誌を読んでいると、「心の悩み相談室」が開かれれるという記事が目にとまった。
普通なら見逃してしまいそうなくらい小さな記事だった。
週に一度、専門のカウンセラーが個人面談してくれるというということである。
18歳以上で品川区在住なら自由に参加できるという。

みずきはその「心の悩み相談室」に毎週水曜日に出かけることになる。
カウンセラーの名前は坂木哲子で、気持ちよさそうに太った四〇代後半の小柄な女性だった。
いかにも人好きのするそのカウンセラーに、みずきは「名前忘れ」のことを話すことになる。

生まれ育ちや今までのこと、現在の結婚生活の事や友だちのこと。
『なんて面白味のない人生なんだろう』と思いながら話す。
熱心に話を聞く坂木からは深い本物の関心が感じ取れた。

名前に関連する思い出や出来事も話す。
そのときふと、名古屋の家を離れて、横浜の一貫教育の私立女子校にいた時のことを思いだす。
寮では名札をかけるボードがあり、自分の名札を表にしたり裏にしたりして、寮に居るか居ないかを受け付けに分かるようにしていたことを話す。

自分で部屋で翌日の予習をしてると、二年生のユッコと呼ばれていた松中優子が訪ねてきた。
親は金沢の老舗旅館を経営していて、お金持ち。
その上眼鼻立ちがまるでお人形のような色白の美人で、成績もかなり上の方だった。
彼女に憧れる下級生の女の子もたくさんいた。

その子が『自分の名札を預かってほしい。』と頼まれる。
『くれぐれも猿に名札を取られないように』とも言っていた。
そして松中優子は、何処かの森で剃刀で手首を切って自殺した事を聞く。
松中優子から預かった名札は、未だに自分が持っているとはずだった。
騒ぎに紛れて返しそびれてしまったのだ。

名前が思い出せなくなっていったみずきは、名カウンセラーの特殊能力で再び自分の名前を手にすることができるようになる。

失くして初めてわかるありがたさと、不思議の世界を描く村上ワールドが、面白く交差する。
短篇だけど、否、短篇だからなおさら流れるように読んだしまう。
そんな一作だった。

(J)

「東京奇譚集」