hon20160106天藤 真 (てんどう しん)

紀州随一の大富豪といわれる柳川家の女主人、とし子刀自が、9月の上旬に不意に山歩きがしてみたいと言いだした。
とし子刀自は、行儀見習いで柳川家に来た娘で、名前は吉村紀美をたった一人連れて山歩きを始める。
紀美は明るくて気立てが良く、とし子刀自のお気に入りだった。

刀自は今年で八十二歳になる。
身長は百四十センチに少し足りない小柄な婦人だ。
顔も体にふさわしくちんまりとしてちょっと両手ですくいあげてみたくなるような、かわいい仏像の趣がある。
その上品な顔に、茫洋とした色を漂わせていた。

そのとし子刀自が誘拐された。
身代金は百億円だ。
1の後に0が十個つく。
そして事件の進行はすべてテレビで生中継せよとの犯人からの要求であった。
さらわれたとし子刀自は、持ち山だけで全大阪府の二倍以上もある。
超大富豪だ。

やがて「虹の童子」の名で知られるようになった誘拐団は、同志三人。
大阪刑務所の雑居房で知り合った刑余者たちである。
戸並健次は「おばさん」と称する婦人から計画的に捨てられ、施設「愛育園」に収容されて、長ずるに及んで反抗性が顕著になり、同園を脱走、
浮浪生活の後スリの一味になり、前科二犯。
刑期満了出所。
知能優秀で社会復帰を熱望していた。
秋葉正義は一家離散して父母ともに生死不明。
兄弟なし。
犯行歴八回。
知能やや低度、身体頑健。
性格はおおむね温良で肉体労働に適しているが、周囲との協調性に欠ける。
社会復帰の意欲は相当と認められていた。
三宅平太は、父は死亡し母は雑貨商を営む。
妹が一人いる。
今回が初犯。
知能・体力とも普通。
機敏で活発な面もあるが、他人の扇動に乗りやすくいわゆる「おっちょこちょい」である。
家庭事情から強く社会復帰を望んでいたが、意志薄弱なので、
充分な観察保護が必要。
三人は社会復帰のために資金を必要としており、これが最後の犯罪と決めて臨む。

所轄の新宮警察署に誘拐の連絡が入り、担当になったのは、鬼より怖い井狩大五郎本部長だった。
井狩にとって柳川の大奥さまは生涯最大の恩人であった。
津の谷村の隣町本宮で生まれ、家庭に恵まれず進学の望みがなかったのを、口を利く人があって柳川家の育英資金を受けることができ、
大学に進学した。
受験に三度失敗し当時三年で出るところを倍の六年かかって卒業したが、「大奥さま」はいやな顔一つせずに面倒を見た。

このウルトラ誘拐事件にローカルテレビ局は大あわて。
一生に一度あるかないかの一大イベントだ。

百億円と言う巨額な身代金に、
日本はおろか世界中からの注目が集まる。
この額は五千四百三十四万ドルあまりにあたり、
今までの諸外国のどの例よりも高額だった。
誘拐天国のイタリアでもファイアット社長の三百万ドルだったし、
赤軍ハイジャックでは六百万ドル。当時の円で百六十億二千万円。
刀自の六分の一にも及ばない。

刀自の子ども達は母親を救うためと、出される犯人たちの要求におろおろしながらも対応。
次第の決断を固める。
成人してから何かを一緒にすることも無かったきょうだいが、母を救い出すことに協力し手を取り合うことになる。

第32回日本推理作家協会受賞作であるこの作品は、犯罪史上前代未聞のユニークさで綴る。
決して乱暴や不誠実なことはせずに、当局の裏をかきながらも、テレビの視聴者の関心を集めつつ、一歩一歩と成功へと近づく。

誘拐されたはずの刀自が、自らの思いをこの誘拐に託す。
お金があり、名士であるがゆえに人を信用できずにいたとし子刀自は、歳と共に朽ちていくことに複雑な思いを持っていた。
誘拐と言う今までに経験したことのない体験は、刀自の心に変化をもたらす。

読んでいてユニークな内容は、絵空事とは思いながらも十分楽しめる。
昭和54年の受賞作品であるが、決っして古さを感じさせない作品でもあった。

(J)

「大誘拐」