hon20160122加藤 周一 かとう しゅういち

1919ー2008年
1943年 東京大学医学部卒業
著書 『現代ヨーロッパの精神』
『芸術論集』 『三題噺』
『日本人の死生観 上・下』
『翻訳と日本の近代二十世紀』

「羊の歌」は、1966年十月から翌年三月まで、「朝日ジャーナル」に連載された。
1966年と言えば、今から50年前、半世紀が過ぎる。
今なお読者を持つこの本には、とてつもないことが書かれているわけではない。

加藤周一さんという、「現代日本人の平均に近い人間」が、どういう条件の下で出来上がったかということを、自分のことを語ることで示し、戦争とファシズムの荒れ狂う時代の中で、自立した精神と持世に埋没せず、力強い個性とパーソナリティを感じさせる
彼の成育歴が書かれている。

筆者の祖父は、佐賀の資産家のひとり息子で、明治政府の陸軍の騎兵将校だった。
日清戦争に従軍する前に、家産で名妓万龍をあげて新橋で豪遊し、イタリアに留学し、西洋流の慣習を身につけたらしい。
陸軍を退いてから貿易の事業をはじめて、第一次大戦でもうけ、その後の恐慌で資産の大部分を失って、晩年はあまり豊かではなかった。

祖父の次女として生まれた彼の母は、埼玉県の大地主の次男であった父と結婚する。
父は次男なので家業は継がず、中学校から村を離れ、東京帝国大学で医学部に進み、大学病院の内科に勤務しその後開業する。

町医者は日に一人二人とかいう程度で、あたりはひっそり静まりかえっていた。
町医者が成功しなかったというようなことではなく、若くして隠者の風を備えた男が、心の赴くままに、「世間」と風俗を無視して成り立つような、一種のぜい沢だったという。

小さい頃の加藤さんは、外に出て遊ぶことの少ない子どもで、容易に文字を覚えて、けっして丈夫とは言えないその子は、病気の時には、寝床で本を読みあさる。
不器用だった子供時代は、体操に閉口し、画を巧みに描くことや歌を上手に唱たうことはあきらめていた。

1931年満州事変の始まった年に中学校に入り、1936年二・二六事件の年に中学校を卒業する。
日本が何処に行こうとしているのか全く知らぬままだった。

父は、南京大虐殺の事実を知る自由も持たぬまま、ちょうど、ユダヤの強制収容所を知らなかったドイツ国民のように、また、爆撃で廃墟と化したヴェトナムの実情を知らされていなかった、
多くのアメリカ人のように。

その後、第1高等学校に進み、東京大学で医学を学び卒業する。
その間には第1次大戦・第2次大戦が起こり、東京も彼も戦争へと突き進むことになる。

大学に入ってまもなく肺炎や湿性肋膜炎を患う。
抗生物質はまだ発見されおらず、生死の境を彷徨う。
恢復期の間に、生きていることは、それだけで貴重なことのように思う。
傍からみればとるに足らぬ小さなことが、世界中の何ものにも換え難いよろこびになる。

東京大学付属病院の内科教室は、卒業と同時に軍医として召集されて、医局には二十人ぐらいしか残らなかった。
いくさの見透しがたたなくて、将来の計画などは立てようもなかった。
家産はすでに傾いていたが、さしあたり稼がなくても暮らしていくことはできた。

本郷の大学は、東京大空襲のとき、戦火とちょうど境になっており破壊は免れる。
病院には火傷を追った人々が次々と担ぎ込まれて、病室はたちまちいっぱいになる。

数日は誰もがほとんど寝食を忘れて働きつづけた。
その後もながく病院に勤務するようになるが、その時ほど我を忘れて働いたことはなかったという。

「羊の歌」の羊は、加藤さんの羊年生まれだからだそうだ。

小さい頃から父親の影響を強く受け、読んだ本に心酔していたが、中学・高校・大学と進んで行く中で、仲間や先生や様々な人との出会いのなかで、その影響を眺め自分の考えや生き方を模索したと言う。

ご本人は自分のことを「平均的な日本人」と言うけど、決して平均的でない日本人の加藤さんの大学までの人生は、戦争の歴史と重なる。
真実は隠され、ファシズムの賛美されたその時代に、彼は病身でありながらも、いやそれ故でもあるだろうが、何気ないものに人生の喜びを見出し、それを大切にしようとした。

淡々とした文章だけに、その強さや深さがより感じられる。

戦争を知らない世代が、戦争を知る世代の生き方を知るためにも、読んでみるのもいいかもしれないと思う。

(J)

「羊の歌」