jurinburogu201607301

沢木 耕太郎 (さわき こうたろう)
1947年、東京都生まれ。
70年に横浜国立大学経済学部卒業。
若きテロリストと老政治家の、その一瞬までのシーンを積み重ねることで、
浅沼稲次郎刺殺事件を描ききった『テロルの決算』で79年大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
『一瞬の夏』(81年、新田次郎文学賞)、『深夜特急』(86年、92年)、
『檀』(95年)、『凍』(2005年、講談社ノンフィクション賞)、
『キャパの十字架』(13年、司馬遼太郎賞)など、
ノンフィクションに新しい地平を開いてきた。
2003年、菊池寛賞を受賞。

 

「クレイになれなかった男」
カシアス内藤は連勝街道をデビュー以来進んできた。
16連勝し、20歳で日本ミドル級チャンピオンになった。翌年、東洋ミドル級チャンピオン。
しかし、その年のうちに、
柳済斗によって東洋タイトルは奪われる。
それから消えたようにカシアス内藤のニュースが聞こえなくなった。やめたのかもしれないと思っていた。

そのカシアス内藤の記事を読んだ筆者は、
彼のその後の行方を追った。
ソウルで柳済斗と対戦するという。

内藤純一は昭和24年横浜生まれ。
父はロバート・ウィリアムズで進駐軍の黒人軍曹だった。
母は内藤登美子、キャンプ地でウェイトレスをしていた。
父ウィリアムズは朝鮮戦争で召集されて戦死し、
母登美子は二人の子どもを女手ひとつで育て上げた。

高校の陸上部で見事なハードリングをしている黒人ハーフの内藤を見た
新任教師でボクシング好きの吉村の熱意に動かされて、ボクシングの世界に入る。
入部後もあまり練習熱心でなかったといわれていたが、
サウスポーにスイッチしてその天才ぶりを発揮し、敵をやっつけた。
ボクシングの体重管理はとても厳しいようだ。
最低限度の水しかとらず、徹底的に体重を落とす。
ソウルで柳済斗との対戦のときも顔に艶がなく黄土色かかり、
眼は落ちくぼみ頬はそげていた。

カシアス内藤は精神力が弱いという“弱点”があるという。
彼のコーチだったエディも《内藤はやさしい子、あんなにやさしい子はいない、でもがまんできない・・・》という。
ボクサーの宿命として頭部に強い震動が与えられて、
脳に変化が起きるという。
軽症だと酒酔いのように真直ぐ歩けなかったりするが、
さらに進むと網膜剥離、言語障害から俳人になることもあるという。
やさしい内藤は獣のようなボクサーになれなかった。

父の死んだ地・韓国での柳済斗との試合は、
だらだらとした試合運びで最終ラウンドになっても二人ともラッシュしなかった。
観客のブーイングにもかかわらず、
最後までその調子の試合は続いた。

 

ドランカー(酔いどれ)

その柳済斗を倒したのが、輪島功一だった。
東京・両国の日大大講堂に、一万二千人の観衆が集まった。
衰退気味の日本ボクシング界にとっては近来にない大観衆だった。
WBA世界ジュニア・ミドル級タイトル・マッチ15回戦で、
王者柳済斗に輪島功一が挑戦したのだ。
輪島にとっては奪われた王座を奪還すべき最後のチャンス、リターン・マッチだった。
セミ・ファイナルの試合がわずか3回で終わり50分以上の間があった。
柳陣営は誰もが幸先良しと思ったに違いない。

輪島の前評判は最悪だった。
「柳、圧倒的に優勢」とマスコミは報道する。
事実、輪島はあまり練習時間をとれずにいた。
「輪島、絶望」と言われる中、今までにない試合運びで輪島の優勢が続く。
誰もが勝つとは信じてなかった試合に震えるような勝利を輪島は収める。
《これが日本魂というものです。》と泣きそうな声で言った。
韓国での、カシアス内藤と柳済斗の試合から3年の月日が流れていた。

人生でただ一度だけの青春の時を過ごす。
勝敗の世界に賭けて燃え尽きた人びとを描く6つの物語。
ボクサー・マラソンランナー・騎手やサラブレッドたちの、
勝負に挑み勝負に賭ける、そんな人のひそやかな思いを、
筆者・沢木耕太郎自身の人生への思いと、どこかで重ねているように思いながら読んでいた。
そして、また、尋常でない厳しさのある世界だからこそある華やかな世界を、
自分の心のある部分を重ねて読んでみて、大きく頷いた。

(J)

 

 

「敗れざる者たち」